2007年12月14日(金)
2007年12月14日(金)
本日もやっぱり嬉野です。
寂しさっていうのは、どこからくるんだろうって、
数日前の夜、ふと思ったんです。
我が家の居間でね。
ふと思う。
これはもう持病でね。
なんだか、どうでも好いようなことを、不意にうだうだ考えるんです。
「なんだなんだ」が、なんとなく始まっちゃうんですわ。
あの晩は、会社から戻るとうちの奥さんはもう寝てしまっていたんです。
そんに遅い時間でもなかったんですがね。
ぼくは、冷蔵庫からビールを出して、
一人、暗い居間に座って飲んでおりました。
居間の明かりはつけず、廊下の明かりをつけたままにして。
暗い居間には廊下の明かりがもれていました。
今、ぼくは、うちの奥さんと二人暮しでね。
昔は、もう一匹、犬がいたんだけど。
年を取って、死んでしましまいした。
うちの奥さんは旅好きの主婦でね。
雪が融けるとバイクに乗って旅に出る。
そして、そのまま一ヶ月くらい帰って来ない。
その間、旦那は一人暮らしで、亀や小鳥の世話をしてる(笑)。
ぼくは、あの人が旅に出て不在でも、寂しくなんかはないんです。
その間、この家で、一人で生活していても寂しくなんかはないんです。
でも、もしね。
あぁ、自分は、もう一人きりなんだって思って、
あの部屋に一人で暮らし始めたら、そしたら急に孤独を感じて、
たまらなく寂しいだろうなと不意に思ったんです。
薄暗い居間に座って、明かりに照らされた廊下を眺めながらね。
現実には、奥さんは、ぼくの直ぐ側で寝ているわけなんだけど、
寝室で寝ているから、見えないといえば見えない。
でも、見えなくても、そこに居るんだとぼくは信じている。
信じているから、奥さんのことはとくに考えない。
だから、もちろん、自分はひとりだとは思わない、
だから、どうしたって寂しいなんて思わない。
そうしてなんだか他のことを考えてる。
そう「寂しさ」について考えてる(笑)。
そのことに熱中してる。
いるといない。
いろんな意味で、どういう違いがぼくの頭の中で生じて、
ぼくは寂しさを感じたり感じなかったりするのだろうって、
ちょと考えたんだけど、まぁ、なんだかよくわからないままだった。
うちの犬が死んだ時。
奥さんは、毎日泣き通しでした。
多分、ぼくが死んでもあんなに泣きはしないだろうと思うくらいね。
それくらい泣いてました。
なにしろ結婚する前から飼っていた犬だったし、
あの人が実家を出て、一人暮らしを始めて、いろいろあって。
寂しい時に側でずっとあの人を慰めてくれていた犬だったから、
あの人にとっては特別だった。
あれは、ちょうど「どうでしょう祭」の年でね。
ぼくは、祭り前の準備でわりと忙しかったのかもしれない。
八月の終わりの頃でした。
このまま家にいると、いなくなった犬のことが思い出されるばかりで、
あの人の身が持たない。
だからと思ってぼくは奥さんを旅に出しました。
うちの奥さんは、旅に出る時は、いつも一人だったから。
旅先で一人でいることを彼女は孤独とは思わない。
そして、旅先に犬の姿は無くてあたり前の風景だったから。
だから、いないからといっても、旅先で犬の姿を探し、
いなくなってしまった犬を思い出し、その不在に泣く事もない。
そうね。
いないことに孤独を感じて、寂しさに泣く時、
ぼくらは、きっと思い出しているね。なくなったものを。
寂しいのは、あえて、思い出すからなのかもしれない。
思い出すということは、そこに無いものを求めるということ。
無いものを求めるということは、二度と修復不可能な欠落を強く見つめてしまうということにつながってしまう。
その行為が、ぼくらを寂しい孤独の底に追い落とすのかもしれない。
そうね。
多分そうなんだね。
強く思い出すから、不在がますます際立つ。だから寂しいんだね。
思い出すことばかりをするから、強くその不在を感じ続けてしまうんだね。
だったら、思い出すことなく、何かに熱中できていれば、
そう心掛ければ、寂しさも、和らぐのかもしれない。
それは、ひとつの対処法としてね。
乗り越えるための対処法としてなら有効なのかもしれない。
まぁ、思いつきです(笑)。
泣くという行為があるでしょう。
あれはね。
必ずしも悲しいから泣きたくなるのではないということを、
年配者のぼくは知っています。
悲しくなくたって、人は泣くんです。
ただまぁ、泣いているうちに悲しくはなるけれど。
泣くという行為。
あれは、ぼくら人に与えられた表現なのだと思います。
ぼくはね、ぼくは、そう思うんです。
うちの番組でね、もう5年も前のことだけど、
ベトナムをカブで縦断したことがあったけど、
あの時、ゴールのホーチミン市のホテルに到着して、
藤やんも大泉洋も、
好い年をした大人が、堪えきれずに泣いていました。
あれは悲しいから泣いていたんじゃないと、今ぼくは確信を持って思います。
あの時、あのふたりの胸の中から、なんだか訳のわからないものが堰を切って一時に溢れ出てきたはずなのよ。だから溢れ出た涙が止められなかった。
だからあの時、
なんで今、こんなに涙が出るのか。
その訳が一番分からず当惑していたのは、大泣きしていた当の本人だったとぼくは思う。
そんな時の涙はね、
堪えようとしても堪え切れるものではないのよ。
でも、その行為に、外から見守るぼくらも共感して、また泣いてしまうんです。
かれらの涙の真の意味は分からないままに。
そういうふうにね、
他人の境遇に強く共感することが、
ぼくら人には出来るということです。それが人の持つ能力というものです。
それは、けしてあの二人だけのことではなくて、
ぼくや、みんなの話です。
泣きたい時は、人それぞれにある。
人は、なぜ泣くのか。
それは多分。
胸の中に降り積もる想いの全てが、必ずしも伝達可能なものばかりではないから。
言葉や文章で伝達するには、それらはあまりにも複雑にすぎるから。
だからぼくらの胸の中には、行き場を無くした複雑な感情が、後から後から、幾つも幾つも山のように降り積もっていくのです。
心が弱っている時、
人は、訳も分からず涙が出ることがあります。
それは、その人の胸の中に、複雑な情緒が積もり、
いっぱいいっぱいになっている証拠です。
だから、ほんの些細な衝動に突き動かされても溢れてしまう。
だけど、その時の涙。それは表現だから、
人が持つ、何者かに与えられた表現行為なのだから、
そんな時は素直に、ただ泣けば好い。
そうして、胸の奥にたまった複雑なものを、どんどん表に出せば好い。
「泣いたら、少し、気持ちがスッキリした」
そんな言葉が出るのは、そうしたことが胸の中であったからだと思います。
人間は複雑なのですよ。
ぼくらは、そんな伝達不可能なほど複雑なものを抱えながら、
生きているのだと思います。
だから、どうしたって、辛い想いをするのですよね。
だから、他人には、出来る範囲で優しくしてあげるのが一番です。
だって、私だって優しくしていただきたいわけですから。
誰だってそうなのです。
傷ついたり、困り果てたり、疲れきったりした時にはね。
そんな時に、誰かが優しく手を差し伸べてくれるんだったら、
また立ち上がれる。
そしてまた、安心して生きていけるわけですからね。
どうしたって処理できない想いという複雑なものを抱えて、
人は生きていかねばならないんですよ。
けど、その複雑な想いを処理する能力を人は持っている。
それが泣くという行為。
そして人は、泣いている他人の境遇に共感する能力も持っている。
泣いて、泣いて。
そして誰かが、そのことに共感さえしてくれれば、
不思議に人は、複雑で苦しい想いをその時、処理できる。
それが、この地球で生きて行くための掛け替えのない術として、
きっと太古の昔、誰かが人に与えてくれた力なのではないかなぁと、
ぼくは、思うわけです。
いや、もちろんたんなる思いつきです(笑)。
与太話のたぐいです。どうぞ、お笑いください。
そしてお聞き流しを。
それでは、みなさん本日は金曜日。
また来週この場所で、お会いいたしましょう、ね。
解散。
そうそう、札幌の町は、もう雪景色ですよ。
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(17:57 嬉野)