嬉野

2008年9月12日(金)

嬉野です。

今週は呑気に旅日記でも書こかいなぁと思っておりましたら、
意外に気ぜわしく、気がついたら金曜日でございます。

ということで本日はですねぇ、
妙に火曜日の日記の続きを期待しておられる奇特な方が数十名おられるようなので(笑)、その数十名の方に向けて旅日記の続きを書かせていただきます。

他のみなさん、すいません。

しかしながら奥さん。
小説じゃないから、続きはしないのよ。
言っとくけど。
わかりますね。そこのところ。
して、今日もあっさり終わるのよ。

はい、ということで始めましょう。

さて、夜更けに出航した苫小牧発→八戸行きフェリー内で見かけました、くりくり坊主頭のマルコメは、八戸到着後、未明の下船ではありましたが、聞き分けよく起きれたようで、お父さんお母さんらしき人と共に、相変わらずのよたよたした足取りで一人前にリュックをからげて、私ら夫婦の前を元気に横切って下船して行きました。弟がいたみたいです。

もう二度と、逢うことも無いのでしょうね。
それを思うと不思議です。

いえ、もし、数年先、数十年先に会うことがあっても、それがマルコメだとは、ぼくらにはもう分からない。
でも、あの夜更けのフェリーの中で、
「こんにちは」と言ってくれたマルコメのことは、きっとぼくも女房も、この先ずっと忘れずに覚えているはずです。

それを思うと人の出会いは不思議です。

あれも、きっと出会いだったのです。
立派なね。

それを思えば、ぼくやあなただって、行き擦りの他人の記憶の中に生涯、それとは知らず残ることがある。

そういうことなのでしょうね。

さて、その日は丁度日曜で、八戸の館鼻という、あれは埠頭なのでしょうか、海の傍でしたが、そこに大きな朝市が立っていました。

あたりには霧のような雨が降っていました。
それでもそこはすでに大勢の人でにぎわっていました。
日曜の朝の6時前だというのに。

やはり港の朝市、海のものが安いのです。
カスベのひれが、どれも安く美味しそうでしたが、
旅人が買うには、やはり量が多い。

見て歩くうちに、あちこちの店で、
一山三百円で売られていたカニがありました。
「ヒラカニ」と書かれて売られていました。
一匹が手のひらにちょうど乗るくらいの小さなサイズです。
それが一山だと10匹くらい。

どうやって食うのだと聞きますと、素直に塩茹でしても美味しいし、甲羅が柔らかいから、唐揚げにするとパリパリと全部食えてこれも美味いと言います。

あれこれ見て歩くと、一山二百円で「ヒラカニ」を売っている店がありましたのでそこで買いました。

元気でよくしゃべる小母さんの店でした。
横で、青いカッパを着て実直そうに立つ若者がおりました。

女房が、小母さんに「どのカニが好い?」と聞きますと、
小母さんは、「どれも好いよ」と言います。
その時、脇に黙って立っていたその若者が、一番手前の皿を指して「これがいいです」そう言って袋にさっと詰めてくれました。

黙って居るけど、けして愛想が悪いわけじゃなく、
青森の若者は、真面目で無駄なことは言わない、
そんな雰囲気が好印象でした。

女が主役のように良くしゃべり、男は、じっと傍にいて、女を立てる。青森の男には、そんな気風があるのでしょうか。

丸々としたイナダが二尾二百円で売られていました。
一尾だけ売ってもらえないかとの旅人の勝手に応えてくれて、
小母さんはイナダを一尾百円で売ってくれました。

その晩、イナダは刺身になり、
ヒラカニは真っ赤に塩茹でされました。

ヒラカニは甲羅を開けると味噌がいっぱい入っていました。
両手で半分に割ると中から白くてやわらかい身が現れました。
口に入れると甘いうまみでいっぱいになりました。

「ヒラカニ、好い具合の塩加減だねぇ」
そう女房に言いますと、
「海から来た者には、少しの塩で充分なんだよ」
と、料理人めいたことを言っておりました。

「そうなんだぁ」と、
妙に感心して聞いたのでありました。

青森はワンダーランドです。
昔ながらの物が、この時代にも、変わらずそのままに、
人の心に受け継がれている、そんな気がします。

青森に行くたびに、それが不思議でしょうがないのです。

マルコメも、きっと、そんな青森の風土の中で、これからも育っていくのだろうなと、勝手に考えています。

苫小牧に家があるかも知れないのにね(笑)。

館鼻の朝市は、観光客の姿の無い、地元で生活する人たちだけで充分にぎわう朝市です。
幸せな朝市です。

八戸に寄ったら、是非また行きたいと思いました。

ということでねぇ奥さん。

こう言う事でよかったかしら?

じゃ、また来週。

ご機嫌で居てねみんさん。

今日の札幌は曇りですよ。

解散!
おっと!解散しちゃいけないんだ!
言っておかねばならないことがございました。

恒例のどうでしょうカレンダー2009年版卓上タイプと、
今年は壁掛け用のポスタータイプも御用意しておりますので、
是非両方ともどうぞ。

水曜どうてちょうも(布、リフィル)が取り揃えてございます。
リフィル?
リフィルってなんすかね?

よく分かりませんが、いかがでしょうか。

じゃ、解散!

(13:35
嬉野)

嬉野

2008年9月9日(火)

先週末の夜。
苫小牧港からフェリーに乗った。
青森八戸港行きのカーフェリー。

夜更けに出航する船の二等船室は年配の家族連れで割りと込み合っていた。どの家族も旅なれたふうで、寝袋や毛布を持参して、ぼくら夫婦が船室に入った時には、すでにそれら寝具を床に敷いてその上で銘々にくつろいでいた。

二等船室には枕はあるが毛布は無い。

ぼくは、黒いフカッとした枕に頭をのっけて、
そのままごろりと寝転んで女房に聞いた。

「フェリーに毛布って置いてなかったっけ?」
「有料だよ」

なるほど女房の言うとおり、そのうち館内アナウンスが、
「ただ今、毛布一枚300円で貸し出しいたしております」と、
告げだした。

だが、毛布を借りに立ち上がる人は一人も居ないようだった。

フェリーは苫小牧港を夜9時15分に出航する。
青森の八戸港に着岸するのは翌朝4時25分だ。

7時間ほどの船旅。
後は寝ていくばかりだなぁと思うと、
ぼくは妙に浮き浮きとした。

フェリーには、風呂場もある。
だが、みんな、家で済ませて来たのか、
乗客は誰も船室を出ていかない。

ぼくと女房は風呂に行くことにした。

風呂場はガランとしていた。
まだ出航前だったので、湯船に満たされた湯は波打つこともなかった。

風呂から上がる頃、フェリーは港を出たようだった。
船が動き出すと船内は少し揺れだす。
だからなんとなく歩く足さばきもよたよたとなる。

そのよたよたとした足取りで風呂上りにトイレに寄った。
フェリーのトイレはそこそこ広く、
だが、ここもガランとしていた。

用を済ませ洗面の鏡の前で手を洗っていると、
五歳くらいの小さな男の子が一人で入って来た。
頭をくりくり坊主にした男の子だった。

昔、お味噌のCMで「マルコメくん」というのが、そういえばあんな感じのくりくり坊主頭の男の子だったなぁと、その子を見て不意に懐かしく思い出した。

マルコメは、小さな足でよたよたと入って来た。
そうして便器までまだまだ距離があるというのに、
小さな両手で早々とズボンの前を開けながら入って来た。
そうして殊勝なことに「こんにちは」と挨拶しながら入って来たのだ。

きっと、お父さんお母さんに、表で大人の人に会ったら知らない人でも挨拶をするのよと躾けられているのだろう、マルコメは言いなれているふうの元気な声で「こんにちは」と言いながら便器に向かって歩いていった。

ぼくは、久々に大人を大人として認識してくれる子供を間近に見てなんだかむやみと嬉しかった。

船室に戻ると、遅れて女房も戻って来た。
そして言うのだ、

「さっき廊下でマルコメと擦れ違ったよ」と。

女房も同じ認識をしていたのが可笑しかった。

「こんにちはって言ったから、今晩はだよって教えてあげたの」

女房は、挨拶をしてくれたマルコメの可愛らしさを思い出してか、機嫌好さそうに笑いながら話していたが、マルコメにしたら、こんな夜更けに知らない大人に会うことも普段はなかろうから、マルコメの語彙の中には「こんにちは」しかなかったろうにと思うと、行きがかり上とはいえ、出会いがしらに女房にたしなめられてしまったマルコメが少し気の毒でもあった。

船は予定通り午前4時25分に青森の八戸港に着いた。

消灯されていた船室の明かりがつき、船室内の大人が起き出し、下船の準備を始めた。

眠い目をこすりながら女房と荷物をまとめる内、
そう言えばこんな夜更けに、小さなマルコメはちゃんと起きれたろうかと勝手に心配になった。

ということでね奥さん。
今日のところはこれで帰りますよ。
嬉野でした。

じゃ、またね。

(21:38
嬉野)

嬉野

2008年9月7日(日)

嬉野です。

もの凄い数の書き込みが押し寄せております!
ありがたい!

さっそくレスなしで掲げました。
みなさん御満足の御様子、なによりであります。

監督をいたしました藤村も安堵しておると思います。

ドラマを作った者たちが伝えたかったことは、驚くほどみなさんに伝わっているのだなぁと、
わたくし、なんだかそのことに、じんわりと感動をいたしました。

地味なテーマのドラマも、
やっぱり感動しますよね。

そして、感動しちゃったということはね、
それはね、やっぱりその地味なものを懐かしいものとして、
心のどこかで求めているからですよね。

派手も良し。なれど地味も良し。

立川志の輔師匠の原作があり、
その師匠の落語をテレビマンユニオンの重延会長が、
ドラマにしませんかと、
今回監督をいたしました藤村に橋渡しをしてくれ、

その原作をテレビドラマにするため、
札幌小樽で追加取材をし、
半年以上の時間をかけて鄭義信さんが脚本にしてくれた。

その脚本の中に生まれた、
恐るべきクオリティーの人間ドラマ。

その軽やかでさりげないままに深い、鄭さんのセリフに、
魂を吹き入れてくれた田中裕子さん、大滝秀治さんを初めとするなだたる日本の名優陣の桁はずれた演技力。
役者の力。

そしてその名だたる名優と伍して、
主演を勤めました御存知!の驚嘆すべき人間力と演技力!

撮影現場を進行していきました各スタッフどもの手堅い働き。

なにより、自分たちの練習をこのドラマのために割いてまで協力してくれた札幌の二つの女声コーラスチームのおかあさん方の合唱の歌声。

そして最後に、
このドラマを日本中のいろんなところで観て、
図らずも共感してくれたみなさん。

観てよかったと思ってくれた、みなさん。

全ては出会いなのでしょうね。

そして、このドラマはお陰を持ちまして、
この平和な日曜日の午後に、
日本各所で好い出会いを招くことができたようでございます。

そのことを、監督をいたしました藤村が、
今、誰よりもうれしく想い、
ひとり、安堵しておることと思います。

みなさん、ありがとう。
素直で素朴な温かいコメントをたくさんありがとう。

一安心でございます。

それでは、私は帰ります。
また明日。

まだ、ぞくぞくと掲示板にはコメントが寄せられております。
あげるのが遅くなってすみませんでした。
いろいろ読ませていただいておりました。

PS,
チョコとおかきを嬉野さんに差し入れしてくれたあなた!
あなたのお気遣いにも感謝でございます(笑)。
お腹へってきてたわけ。

(17:46
嬉野)

嬉野

2008年9月5日(金)

嬉野です。

あさって9月7日(日)午後二時から。
ドラマ「歓喜の歌」。
テレビ朝日系列で全国放送。
なにとぞチャンネルを合わせ、しかる後、熱心にご覧あれ。

原作、立川志の輔さんの新作落語「歓喜の歌」
脚本、日本アカデミー脚本賞受賞の脚本家、鄭義信さん
主演、御存知!
監督、水曜どうでしょうの藤村
物語、とにかく面白い
カメラ、とにかく好い

田中裕子様、大滝秀治様、あき竹城様、根岸季衣様、白川和子様、上田耕一様、利重剛様、ふせえり様、吉本菜穂子様、永野宗典様、鈴井貴之様も御出演!(見落とすな!)
とにかく日本の名優めじろ押しで出演!

先ほど、うちの藤村が、わたくし目に、

「あんた、盛り上げに日記書いていきなさいよ」
と、申し残しまして、そそくさと退社をいたしました。

わたくし先週の土曜の夜から女房と共にフェリーに乗り込みまして八戸に上陸、北東北をぐるりと旅してまいりまして、ようやく本日より出社したのでございますよ。

「あんた、このタイミングで自分の旅日記とか書くんじゃないよ」
「当たり前だろ」
「いいや。オレが言わなかったら書くつもりだったんだ」
「バカをお言い。書くわけが無いでしょう。私だってその程度の常識はありますよ」

「あんた、日曜日、放送、会社で見るでしょ」
「あぁ?なんで?家で見るよ」
「いいや、会社で見るはずだ」
「やだよ、家で見るよ」
「放送が終わったら、すぐ掲示板の更新するでしょう」
「どうしてさ」
「全国のみなさんのホットな声をあげていくでしょう」
「…」

ま、そういうことなので。
うちの藤村がどうーしてもと言いますので、日曜日に会社でテレビを見ようかと思います。
家も近いし。

どうぞたくさんの方、お父さんもお母さんも、
おじいちゃんもおばあちゃんも、
お誘い合わせの上でご覧くださいね。
好いお話ですから。

さぁさぁみなさん!
ドラマ「歓喜の歌」!
いよいよ放送です!

お見逃しなく!

(18:36
嬉野)

嬉野

2008年8月17日(日)

嬉野です。

子供の頃、私は泳げなくて、
だから水泳の授業が苦手でした。

九州は南国ですから水泳が盛んなのでしょうか。
毎年夏休み明けの九月に私の通っていた小学校では校内水泳大会がありました。夏休みの成果を見せるというような意味合いもあって九月に行われていたのかもしれません。
それは全校生徒全員参加の水泳大会でした。

小学校六年生の時です。
六年生は25メートル自由形でしたから皆クロールで泳ぎます。

私は六年生になってもクロールができませんでした。
息継ぎができなかったのです。
ですからほとんど潜水のような状況になり、
苦しくて長くは泳いでいられないのです。

だから私にとって水泳は長い間苦しいものとしてありました。

その年の長かった夏休みが終わり、二学期が始まりました。

密かに好きだった女の子も健康的に日焼けして私の前に現れ、一学期より少し大人になったように見えて眩しかったのですが、再会の喜びも束の間、私の心は既に滅入っていました。

水泳大会は日一日と近づいていたのです。

みょうに胃の辺りがしっくりいかない日が始まりました。

やがて、自分は本当に水泳大会に出るのだろうかと、他人事のように思い始めるようになりました。

水泳大会が不意に中止になったりすることは、さすがにないだろうが、自分が不意に出ないというのはアリではないかと思い始めるのです。

嫌ならば出なければいいではないかと、どこかで思うのです

風邪を引くとか、お腹が痛いとか、急に病気になればいいではないかと、どこかで思うのです。

12歳ともなれば、いい加減知恵もつくのでしょう、
自分には意思がある、人の行動を決めるのは本人の意思なのだから、嫌なものを拒否することなんか当然のように出来るじゃないかと自分の心の中で妙な葛藤が始まるのです。

仮病を使うのが嫌なら、学校に行くといいながら、学校に行かなければいいではないかと、思うのです。

いや、海パンにさえならなければいいじゃないか。
いや、飛び込み台に立ちさえしなければいいじゃないか。
いや、立ったとしても足を蹴って水に飛び込まなければいいじゃないか。

いろんなことを考えるのです。
しかし、どれもパッとしたものには思えず、
あぁ、やはり自分は水泳大会に出るのだろうなと、
人知れずまた怯え、胃の辺りが妙な具合になるのでした。

そうして私の脳裏には、来たる水泳大会の日がイメージとなって現れるのでした。

そこには全校生徒がプールサイドに集まり歓声が響いています。スタートのピストルの乾いた音がして、水しぶきの音がすると歓声はまたいっそう激しさを増すのです。
そして、黒く日焼けした小学生たちでぎっしり埋まったプールサイドの賑わいとは対照的に、10コースほどある25mプールの長方形に満たされた水面だけがガランとしているのです。

その空白の中に飛び込んでいく。

私はまたしても胃の辺りに妙なものを感じ、それ以上イメージの虜になることをやめました。

そうして、少し離れたところで授業を受ける少し大人びたあの女の子の横顔を眺めながら、ガキの恋心を足がかりに悪夢の底から這い上がろうと努めるのでした。

こうするうちにも水泳大会は日一日と近づいてくるのでした。

ところが水泳大会を間近に控えたある日のことです。
夕方のニュースが台風情報を伝え始めたのです。

台風が来る。
考えたこともなかった。

天佑神助我にアリ!

タイミングさえ合えば水泳大会は中止になる。
嵐の中、水泳大会を強行すると言い張る教師もないだろう。

苔の一念巌も通す。

私は俄かに楽しくなり、教室で級友と軽口をたたくようになりました。
そして翌日から本当に天候は下り坂になり、雨がちになっていくにつれ、私の心は裏腹に晴れ晴れとなり、ひとり陽気になっていくのでした。

ところが目前になり、不意打ちのように台風は進路を変え海上へ抜け、テレビの気象予報官は「ここ数日は快晴となるでしょう」と満面の笑顔で天気予報を伝えるのでした。

万事は窮しました。

私は夕食の後、あきらめたように「ご馳走さま」を言い、テレビの前に座るとサザエさんを見ました。
見終わると、ひとり箪笥の引き出しを開けて水着の準備を始めました。

明日こそが水泳大会の日だったのです。

紺色の海パン、白いゴムの帽子、バスタオル。
それらを水着の袋に詰め終えると、大河ドラマを観ている親父の横に座り、大人に混じって分けも分からず時代劇を見るのでした。

やがて大人たちが寝室に下がり、私も自分の寝床へ向かいました。

「明日、目が覚めると水泳大会の日になっている」

私は口の中で呪文を唱えるようにつぶやきながら暗い部屋の天井を見上げ布団をかぶりました。

翌日目が覚めると、外は快晴でした。

私は「行ってきます」と悲鳴のような声を上げ、ランドセルをからげて家を出ました。

母は私の背中に向けて「水泳パンツはちゃんと入れたね?!」と叫びました。
私は、振り向くこともせず手を上げ歩を進めるのでした。

そうして歩きながら思ったのです。

「確かに、水着を忘れると言う手もある」と、

しかしこの期に及んでそんなチープなことを担任の教師に大会直前で言ったところで、どうせ「取りに帰れ!」と一喝されるばかり、そんなものはカッコ悪さが倍増するばかりだなぁと考え、思い直しました。

そうするうちに小学校の校門が見えてきて、私は、当たり前のように自分の教室にたどり着いてしまったのです。

それでもまだ、自分は水泳大会に出るんだろうかと考えているのでした。ここから逃げ出そうと思えば逃げ出せるだろうにと、まだ考えているのです。

やがてぼくらは全員水着に着替えさせられ、担任の教師に引率されながらプールへ向かいました。

プールサイドに向かう途中にあるシャワーを浴び、急に冷やりとする水の冷たさに肝を縮めながら太陽光線で熱せられたコンクリの階段を上り、プールサイドにあがると、どぶんという嫌な音と共に水しぶきがあがり、歓声が高らかに聞こえてきました。
そして塩素の臭いが不意に私の鼻を突きました。

大会はすでに低学年生から始まっていました。
私のクラスはプールサイドに整列し
、始まっている競技を眺めながら自分たちの順番が来るのを体育座りで待っていました。

その時私は、他人が飛び込む様子を遠くから眺めながら、あの他人事がやがて我がことになる、と、そのことを妙に噛み締めていました。

このまま時間が過ぎていき、やがて三十分もしないうちに、私は、コースの縁にある、あの小さく盛り上がった飛び込み台にあの男のように立つのだと。

そうして衆目の集まる中、妙な緊張感を下腹部に感じながら、水で満たされたあの空白の長方形を目の前にして、塩素くさいあの水の中に当然のことのように飛び込んでいくのだと。

その順番が間もなく来る。

私には、自分の番が自分に回って来るということが段々不思議に思えてきました。
他人事が、やがて自分のことになる。
その当たり前のことが妙に不思議に思えて来るのです。

あんなところに立ちたくないと思っているこの自分は、まだまだ離れたところで事の成り行きを他人事として呑気に眺めている。だが、やがて自分の意思とは裏腹にあの台に立つ時が来る。

その時になって初めて、私は、今あの台に立つ男が経験している現実と直面することになる。

それまではまだまだ時間がある。
だが、やがて間違いなく自分はあの台に立つ。
そして逃れられない現実の中、その私の身に現実が襲い掛かってくる。そして私は苦痛とともに何かを経験する。

水泳大会は流れ作業のように、どぶんどぶんとしぶきを上げながら進んでいきました。

私たちは体育座りのまま、横へ横へと移動を続けていきました。

私は妙に哲学的な小学生になって順番を待っていました。

とうとう六年生の番になりました。
私のクラスの先頭の男が台に上がりました。
そうして両手を後ろに伸ばし腰を屈めました。
一拍あって、乾いたピストルの音がしました。
パーン
台の上の男は背中を押されたようにあっけなく水に飛び込んで、私の視界から消えました。

次の男もその次の男も。
同じように私の視界から消えていきました。

それを繰り返すうちに私とプールまでの距離は見る見る縮まり、私の前にいた男たちが向こう岸に泳ぎ着くごとに私の前の視界はどんどん開けていくのです。

とうとう私のすぐ前の男が立ち上がりました。
そしてその男がピストルの音を聞いて飛び込んでしまってしばらくすると、体育教師の指示で私は立ち上がりました。

やはり私の番になったのです。

私の列の男たちも横一線に立ち上がり、それぞれに手足をぶらぶらとさせ、私もそれに習うようにぶらぶらとさせ、まじないのように耳につばをいれるのでした。

そうして私は自分の足を動かして、とうとうあの台の上に立ったのです。

私は歓声の中に立っていました。
けれど、人々の歓声が不思議に遠くに聞こえるように感じる、そこは奇妙な場所でした。

私はいっぱい息を吸い、両手を後ろに伸ばし、腰を屈めました。
波打つ水面が私の目の先に見えました。

ピストルの乾いた音がしました。
その音に弾かれたように私は台を蹴ると、そのまま水面に向かって落ちていきました。
次の瞬間、私の顔に衝撃が走りました。
水面が私の顔を打ったのです。
そしてすぐ鼻の奥がツーンとしました。
耳からは、ごうごう言う水の中の音がするばかりで、歓声は嘘のように途絶えてしましました。

そこは、さっきまでとは違う、奇妙な世界でした。

私は夢中で手足をばたつかせ、水をかき、水を蹴り、どうやら進んでいるようでした。

視界の底にラインが見えました。

5メートル。10メートル。15メートル。20メートル。

そこまでが息継ぎの出来ない私の限界でした。

私は苦しくなって25メートルプールの途中で足をついてしまった。

そして、再び水面に顔を出したのです。

担任の教師が私のすぐ横で、私になにか言っているようでした。
苦虫を噛み潰したような顔で叫んでいましたから、おそらくもう少しでゴールというところで足をついた私の根性の無さを非難しているのだろうと思いました。

どうやら息継ぎもしないで泳いでいたために、期せずして水の抵抗が少なく、私はそこまでトップで泳いでいたらしいのです。

早く上がれと教師たちに促されながら、私はプールから上がりました。その時、私の頭はモーレツにガンガンとした痛みに襲われていました。酸素不足だったのでしょうか。

でも、とにかく、そうして私の小学六年の夏の苦悩は終わり、私は嘘のように清々して、次の日からまた学校に通い始めました。

今から六年前。
その小学六年生が42歳になった年。
かつての小学生の父親は肝臓を悪くしてこの世を去りました。

父親を亡くしてみて初めて、かつての小学六年生は思いました。

次は私だなぁと。

人間は誰でも永遠に生きるわけではないから、
やがて、自分の身にも、その死という瞬間がめぐってくる。

今は他人事として呑気に眺めているだけのものだけれど、
いつか自分の番が来る。

そう思った時。
私は、三十数年前のあの日の水泳大会を思い出したのです。

いつかそれは、私の現実になって、私の目の前に立ち現れ、その時初めて、私はその現実に直面する。

私は弾かれたように水に落ちていく。
すると不意に顔に衝撃を受け、鼻の奥がツーンとする。
そして外界の音が一気に消え、ごうごうという水の中の音だけがする。
私は手足をばたつかせ、もがき、そうして何かをくぐり抜けていく。

その時私に、あの台の上に立って飛び込んでいった男の気持ちがやっと分かる。

そして自分が今直面している、このことが現実のことだということを知る。

そのあとのことは誰にも分からない。

(19:15
嬉野)

嬉野

2008年8月12日(火)

嬉野です。

今日の未明、スタイリスト小松さんのお父さんが、

長く、御病気だったお父さんが、
亡くなられたとのことです。

小松さんの御実家は、札幌から遠く。

飛行機に乗って、
それからまたバスに乗って行かねばならないほど遠く。

ですが小松さんは、昨日札幌を発たれて、御実家に向かわれ、
亡くなられる前に、帰り着くことができ、
お父さんの最期に、立ち会うことができたのだそうです。

その時、お父さんは、小松さんの顔を見て、
笑っておられたのだそうです。

小松さんは、HTBのドラマ「歓喜の歌」の衣装も担当してくれていましたが、その撮影が無事終了した頃、お父さんが危篤ということで一度御実家に帰られていました。

しかし、危篤とのことだったお父さんは、その山を越えられ、
でも、その山を越えてもまた新たな山が押し寄せ、
けれど、その山もまた越えられ、

「きっともう、父はこの世からいなくなる準備をしているんだけど…でもまだなんかイケない理由があるんだと思う。父ちゃんの頑張ってる姿に日々尊敬と感謝」と、

メールで、けなげに言っておられました。

そのうち、今度は小松さんにはオフィスCUEさんのジャンボリーの仕事が近づき、小松さんは、未整理の気持ちのまま、再び札幌へ戻ってこられたのだと思います。

そして先日の土日、札幌はジャンボリーにお見えになったお客さんで大混雑、ジャンボリーも大盛況だったわけでございます。

そして、小松さんは仕事が全部終わった昨日、
再び飛行機に乗って、やっとお父さんのもとへ。

そしてお父さんは、今朝、亡くなられたのだそうです。

お父さんの「イケなかった理由」というのは、このことだったのだろうかと、ぼくは思いました。

いや、たんなる偶然なのでしょうけど、
それでもぼくは思うのです。

お父さんは、娘に迷惑のかからないよう、
娘の仕事が終わるこの日まで頑張ってこられたのだ、と。

親は、やっぱり最後まで子供のことが気がかりなのです。
自分の最期の時まで。

それは、ありがたいことです。
この年になってみれば、しみじみ思います。

親はいつまでも親であってくれる、
だから子は、いつまでたっても子でいられるのです。

小松さん、
心よりお父様の御冥福をお祈りいたします。

小松さんには、なんの許諾も得ず、
こういうことを、
このような場に書くのが適切か否か、
わかりませんが、
一言、書いておきたかったから、書きました。

それでは、また明日。

(15:01
嬉野)

嬉野

2008年8月8日(金)

嬉野です。

先日、東京から札幌に戻る際、
飛行機の窓から夜の日本が見えました。

私は座席に座り、離陸を待ちながら知らぬ間に眠っていたようで、気がつけば、自分を乗せた飛行機は既に雲の上を飛んでいるのでした。

窓の外には、南方洋上に浮かぶような巨大な積乱雲が二つ三つと荒々しい姿で立ち上り、それぞれが沈み行く夏の夕日を受けて、ところどころ赤く染まっておりました。

赤い色温度の色彩の中に広がるそれらは、美しくもあり、怖ろしげにも見える光景でありました。

焼け火箸の先のように赤く赤く光っていた太陽が沈み、発光体が視界の中から消えた後も、空だけはしばらく明るく残っていましたが、下界はすでに夜でした。

雲だけが残滓を跳ね返すのか、時々白い雲間から尖った先端を突き出すように夜の山が黒く怖ろしげに姿を現していました。

飛行機という、どうかすると不安に思える乗り物の上から、闇に溶け込む寸前の地上の景色を見下ろすことほど、怖ろしげで魅惑的な眺めはないのかもしれません。

太陽は沈み。空に残った反射光だけが地上を照らす。
しかし、その反射光を感じることが出来るのは海と川だけ。
他は黒い黒い夜なのです。

視界の先、雲の切れ間に、真っ直ぐな夜の海岸線が見えました。

それが黒い雲のラインではなく、海岸線だと判別できたのは、空に残った反射光を受けて、青白く蛇行するラインが、にぶく浮かび上がって見えたからです。

それは何処までも蛇行する大きな大きな川でした。

そしてそのラインが消滅する先、それが海なのです。

私は左側の窓辺に座っていましたから、あれは夜の日本海。

その時、機内アナウンスが、現在山形上空1万メートルであることを告げました。

あぁ、それでは、あの蛇行する大きな川は、夜の最上川。
海に消えこむその河口辺りに点々と光る町明かりは夜の酒田。

蛇行する川を逆のぼり、眼下に見えるあたりの町明かりは、おそらく新庄、その傍には尾花沢。

やがて、海岸線に大きく突き出した黒い影が見えてきました。

夜の男鹿半島です。

半島の手前に明るく光るのが秋田の街明かり、半島の先に少し控えめに光るのが能代。

一度に日本の町が見下ろせる高度1万メートル上空。

そこからの眺めは、私に不思議な落ち着きを感じさせてくれるのでした。

あの町明かりの中に人が住む。

あそこまで降りていけば人の生活が在るのだと思うだけで、町の明かりという、夜の中に点在する人の印に、平和な懐かしさを感じることが出来るのでした。

その思いは、夜の山が感じさせた、あの黒い恐れとはまるで違うものでしたが、それでもあの黒い夜の山が、あれほどの恐れを感じさせてくれなければ、平和な人の暮らしが懐かしいなどという思いもまた、感じることは出来ないのかも知れない、とも、思いました。

八月六日の夜の、高度1万メートル上空のことでした。

それは広島の原爆記念の日の夜の、日本の景色でした。

明日は八月九日。
長崎の原爆記念日です。

(20:43
嬉野)

嬉野

2008年8月2日(土)

嬉野です。
週明けは留守をしますよ。
みなさん、どうぞ御無事で。

そういえば奥さん、
藤やんが久しぶりに私の日記に絡んでましたなぁ(笑)。
しかも長々と。

昔はあれが日常茶飯のことでした。
ここの日記ではね。
古い人は御記憶にあると思います。
2003年から2005年くらいまではね。あーでした。

私が長い長い妄想を大真面目に書くたびに、
あの人は几帳面に、ひとつひとつ突っ込んで、
あんな風に私の妄想をひっくり返していくのです(笑)。

そうすると、私が必死になって意味のないところに意味を作り出そうとしている作業が全部、完璧にバラケて、無意味になる。
意味ありげな文章が、一瞬にしてバカ丸出しの文章になる。
だから可笑しくなるのだと思うのです。

ちょうどなんだろう、手品師が、お客にタネがバレバレになっているのに、一人だけそれを知らないままに、お客に向けて相変わらず一生懸命、手品がうまくいっていると思いながら「タネも仕掛けもありません!」と大真面目でやっている。

そういう状況を藤やんは作り出しているのだと思うのです。

そして、その笑いが、そこに成立するためには、
おそらく私の大真面目が前提になければならないのだと思います。

藤やんにしてみれば、そこに自分がいじれば可笑しくなる材料が、無防備に転がっているわけで、
おそらくその状況がうれしくてしょうがないのだと思います。
だから楽しみながら、いじる。

そして、それがつまりは水曜どうでしょうなのだろうなと、
ぼくはずっと思っています。

だから水曜どうでしょうが成立するためには、
あの人とまったく性質の違う人間がどうしても必要になる。
多分そういうことなんだろうなぁと、思うのです。

藤やんがあの日記を書いた翌日、
私と藤やんは、ドラマの音楽付け作業の一日目を終えて、
お酒を飲みながら遅い晩飯を食べていました。

その時、いろいろ話していく内に藤やんがこんなことを言い出しました、

「オレ、ドラマの仕事終わったら一度田舎に帰ろうかと思うんだよね」
「八月にかい?」
「そうお盆に」
「お盆かい?暑いだろう」
「うん。でも、久しくお盆に帰ってないからね」
「あぁ、なるほど」
「お盆にさぁ、夏祭りがあるんだよね」
「あぁ好いね」
「そう。夏祭り久しぶりに見たくなってさ」

そう言ったあと、藤やんは遠慮がちに笑いながら、
切り出しました。

「オレさぁ、あんたの日記にいろいろ書いたけど(笑)」
「おぉ見た見た(笑)見たよ。ずいぶん懐かしいことやってるなぁって思ったよ」
「そう」
「何に反応したんだろうと思ったよ」
「いやぁ」
「それでお盆に帰りたくなったか」
「まぁそうじゃないけど」

まったく性質が違い、しかしながら、実際には繋がってはいないかも知れないけれど、不思議とどこかで底が通じているのかも知れないと思わせる、そういう要素の共有もなければ、13年も一緒にはいないだろうとも、また思うわけなのです(笑)。

さて、「歓喜の歌」、昨日仕上がりました。

好い作品になったんじゃないでしょうか。
そう思います。
私はちょっぴり泣きました。

皆さんも、どうぞ御期待ください。

そして、9月7日の放送日まで、今しばらくお待ちください。

それでは来週前半は、お留守番よろしくお願いしますよ奥さん。

解散!

追伸
まもなく、ドラマ「歓喜の歌」の本サイトも立ち上がりますので、そちらでもまた、わたくしの大真面目の妄想を書かせていただこうと思っておりますよ奥さん。どうぞよろしく。

(19:45
嬉野)

嬉野

7月24日(木)

嬉野です。

昨日の夜の地震で、ニュースが入りましてね、どうでしょうクラシックも放送が飛んだようなことになってしまいましたのでね、来週改めて再放送させていただいた上で、順次放送を進めさていただこうと思っておりますが、よろしいですか。
よろしいですね。
では、どうぞよろしく。

取り急ぎ御報告まで。

7月23日水曜日。藤村でございます。

ずいぶん留守にしておりました。

この間、東京と札幌でドラマ「歓喜の歌」の編集作業に立ち会っておりました。

あらためて思いますが、ドラマというのは奥が深い。

出来上がるまでには、幾多の過程と、幾多の人々が関わっている。

立川志の輔師匠の頭の中で、落語として生み出された「歓喜の歌」という物語。

それを、脚本家がドラマに書き起こした。

書き起こされた段階で、それは志の輔師匠の口で語られるイメージの世界ではなく、「現実のもの」「映像に映されるもの」となる。

登場人物の住む「家」、「職場」、彼らが歩く「道の一本」に至るまで、落語ではサラリと語られる部分でも、「現実のもの」としてカタチにしなければならない。

探すわけです。

ロケハンと称して、現実の町の中から、この物語に合う家、職場、道、景色を探し出すわけです。

なかなか見つからない。ようやく見つける。その繰り返し。

そうやって、すべての舞台を探し出す。

そして、そこに「人」が入る。

役者さんです。

役者さんが入って、動いて、はじめて物語が始まる。

始まったら、今度は、それをカメラで撮る。

ありのままを撮る・・・だけではなく、シーンに合わせた効果的な照明があり、シーンによって工夫された録音技術があり、効果的なカメラワークがある。

撮り終わったら、編集。

編集によって、バラバラに撮られていたシーンをつなぎあわせる。

つなぎ方によっても、物語の印象はずいぶん変わる。

シーンをつないだら、そこに音楽を付ける。

音楽もこの物語に合わせて、新たに作曲される。

音楽によって、物語の印象はまたガラリと変わる。

効果音も付ける。

足音、ドアの閉まる音、車の走る音、町の雑踏・・・

これら効果音が付けられてはじめて、町の空気をまとった現実味を帯びた物語となる。

志の輔師匠の頭の中にあった物語が、幾多の過程を経て、ドラマというカタチになる。

「ゼロ」から作る、作り出す。

そこには、何人もの人の力が加わる。

手間も時間も人手もかかる。

ドラマとはそういうものだ。

それがよくわかった。

そして、この「ゼロから作り出す尊さ」は、なにものにも変え難いものだと、わたくし、実感したのであります。

現在、編集作業が終わり、東京で音楽の制作中であります。

そして来週、出来上がった音楽と効果音を付けて、ドラマ「歓喜の歌」が完成であります。

(16:02
藤村)

嬉野

2008年7月22日(火)

嬉野であります。

今週の土曜日ですか、7月26日にですね、
水曜どうでしょう「オリジナル・オルゴール」が発売になりますよ奥さん。

別に買ってくださいという話ではないですよ、何かと諸物価高騰の折ですから、家計も苦しいわけですよ、どのお宅も。
ただですね奥さん。
私も行きがかりじょう、あのオルゴールとは係わりが無いわけではないのでね、書いてますよ。

私とこのオルゴールの間にどういう係わりがあるのか、

御存知の方は御存知でしょうし、
知らない人は知らない、
忘れた人は忘れてね、しまわれたでありましょうし、
言われても思い出さなかったり、思い出したり、ですよ。
はかないものでございますよ。

かいつまんで言いますとね奥さん。

このオルゴールにはマスコットフィギアが二体入っております。

つまりタコ星人のミスタさんと校長の洋さんがフィギアになってオルゴールのメロディーに合わせてくるくる回る仕掛けですよ。

手が込んでます。
石坂店長こだわりのオルゴールですよ。

で、そのこだわりのオルゴールの箱をパカッと開けますとね、
これも石坂店長こだわったところの、二体のマスコットフィギアが、うやうやしく新聞紙にくるまれて入っているわけです。
そばには、くしゃくしゃっと丸められて、クッション代わりにされてる新聞紙も見えますよ。

この、「新聞紙でこだわりのマスコットをくるむ」とか、「新聞紙を丸めてクッション代わりにする」という雰囲気も石坂店長のこだわりだったわけでね、わたしゃ、ここでこのオルゴール制作と係わるはめになったわけですよ奥さん。

話し、よく見えないでしょ。

あれですよ奥さん。
私がこだわりの新聞紙でこだわりのマスコットフィギアをくるんだ係りでした、とか、そういうことじゃないですよ。
間違えちゃだめですよ。

こだわりのくるみ方とか、そういう発想は一切ないですから。

とにかく奥さんねぇ。
店長はねぇ、こだわりのかたまりのような男なんですよ。
つまりねぇ、こだわった仕掛けのオルゴールを作って、くるくる回るマスコットフィギアにもこだわった挙句ですよ、そのフィギアをくるむ新聞紙にもこだわったらしいですよ。

この新聞紙もオリジナルなものにしなければいけない。
そうだ、どうでしょう新聞でくるもう!
そうだ!それがいいぞ!
そうすればタコ星人現る!とか見出しに踊って盛り上がるじゃないか!
じゃ誰が記事を書くんだ?
そうだ!嬉野のおっさんに頼めば好いや!
みたいなことなんですよ。多分。

最初、私、言ったんですよ彼に。
その話をされた時ね。

「やだ」って。

したら奥さんもうね、ごり押しですよ。

それでね、私も根負けしてね、書くことにしましたよ。
で、改めて聞いたんですよ、

「何文字書けばいいの?」って。店長に。

したら店長が言うんですよ。

「いっぱい」って。

私は驚きましたよ。

「いっぱいってなんだよ」
「へっ」
「大人がそんな頼み方しないだろう普通よう」
「いや、多いほど好いんですよ。字数制限なしです」
「やだよ、はっきり数字にしてくれよ、字数制限してくれよ。こっちだってもう帰りたいんだからさ。」
「いや、適当にいっぱい書いてくれれば好いんですよ」
「レイアウトしたんでしょ」
「しました」
「だったら数えれば分かるでしょ、何文字書けばはまるか」
「はい」
「じゃ、数えてよ」
「数えます」

「数えました」
「お。で?何文字だったの?」
「8千文字です」
「はっ…せん…」
「8千文字です」
「まじで」
「まじです」
「そんなべらぼうな文字数ないだろう!新聞だろ!」
「新聞です」
「一冊作る気か」
「いえ見開き一枚です」
「どんなレイアウトしたんだよ!」
「これです」
「なんだよこれ!明治時代の新聞じゃあるまいし、写真とかまるで入らないのかよ!」
「あぁ、写真」
「おかしいだろう!写真も入らないで字ばっかりで、それこそ新文ぽくないだろう!」
「そうかなぁ」
「そうかなぁじゃないよ!新聞広告とかあるでしょ普通!今時文字しか並んでない新聞なんて見たこと無いよ!何こんな夜更けに8千文字とか依頼してんのよ!あんた!」

「多いですか」
「多いに決まってるだろ!べらぼうだよ!」

まぁそんなこんなのやり取りがあってね、でも結局、またゴリ押しされてね、押し問答してる時間すら惜しくなってきてね、とりあえず書かないと帰れないと思いましたのでね、書きましたよ。

その時の憤りをそのままに、書いてやりましたよ私は!

そんな係わり方をね、したわけですよ、私は。
このオルゴールとね。

でね、そのオルゴールがこの度目出度く完成しましてね。

だけど完成したって、私には感慨もなにもないですよ。
ただね、どんな風にくるまれているのかしらんと、
新聞紙の出来が気になりましたのでね
フタを開けてみましたよ。

したら奥さん、
いきなりくしゃくしゃに丸められた新聞紙が見えましてね、

「あぁこれか」と。私は思ってため息をつきましたね。

このくしゃくしゃと丸められるために、おれはあの晩残業になったのかとね、思いましたらね、別の意味で感慨もひとしおでしたよ。

でね、くしゃくしゃした新聞紙を、こう手でほぐしてね、
読もうとしたんですけどね、もうね、悲しいかなどっから読んでいいのかわからないようなレイアウトになっていてね、もうね、更にがっかりですよ。誰も読まねぇよ。こんなもん。

とね、悲しんだわけですよ奥さん。

よく分かんなかったでしょ。話の中身がね。

買っていただくとよく分かるんですよ。

ね。

買ってください。
ね。

じゃ、また明日。

オルゴールの発売は今週の土曜日。

ね。

解散!

(13:48
嬉野)