2008年8月8日(金)

嬉野

2008年8月8日(金)

嬉野です。

先日、東京から札幌に戻る際、
飛行機の窓から夜の日本が見えました。

私は座席に座り、離陸を待ちながら知らぬ間に眠っていたようで、気がつけば、自分を乗せた飛行機は既に雲の上を飛んでいるのでした。

窓の外には、南方洋上に浮かぶような巨大な積乱雲が二つ三つと荒々しい姿で立ち上り、それぞれが沈み行く夏の夕日を受けて、ところどころ赤く染まっておりました。

赤い色温度の色彩の中に広がるそれらは、美しくもあり、怖ろしげにも見える光景でありました。

焼け火箸の先のように赤く赤く光っていた太陽が沈み、発光体が視界の中から消えた後も、空だけはしばらく明るく残っていましたが、下界はすでに夜でした。

雲だけが残滓を跳ね返すのか、時々白い雲間から尖った先端を突き出すように夜の山が黒く怖ろしげに姿を現していました。

飛行機という、どうかすると不安に思える乗り物の上から、闇に溶け込む寸前の地上の景色を見下ろすことほど、怖ろしげで魅惑的な眺めはないのかもしれません。

太陽は沈み。空に残った反射光だけが地上を照らす。
しかし、その反射光を感じることが出来るのは海と川だけ。
他は黒い黒い夜なのです。

視界の先、雲の切れ間に、真っ直ぐな夜の海岸線が見えました。

それが黒い雲のラインではなく、海岸線だと判別できたのは、空に残った反射光を受けて、青白く蛇行するラインが、にぶく浮かび上がって見えたからです。

それは何処までも蛇行する大きな大きな川でした。

そしてそのラインが消滅する先、それが海なのです。

私は左側の窓辺に座っていましたから、あれは夜の日本海。

その時、機内アナウンスが、現在山形上空1万メートルであることを告げました。

あぁ、それでは、あの蛇行する大きな川は、夜の最上川。
海に消えこむその河口辺りに点々と光る町明かりは夜の酒田。

蛇行する川を逆のぼり、眼下に見えるあたりの町明かりは、おそらく新庄、その傍には尾花沢。

やがて、海岸線に大きく突き出した黒い影が見えてきました。

夜の男鹿半島です。

半島の手前に明るく光るのが秋田の街明かり、半島の先に少し控えめに光るのが能代。

一度に日本の町が見下ろせる高度1万メートル上空。

そこからの眺めは、私に不思議な落ち着きを感じさせてくれるのでした。

あの町明かりの中に人が住む。

あそこまで降りていけば人の生活が在るのだと思うだけで、町の明かりという、夜の中に点在する人の印に、平和な懐かしさを感じることが出来るのでした。

その思いは、夜の山が感じさせた、あの黒い恐れとはまるで違うものでしたが、それでもあの黒い夜の山が、あれほどの恐れを感じさせてくれなければ、平和な人の暮らしが懐かしいなどという思いもまた、感じることは出来ないのかも知れない、とも、思いました。

八月六日の夜の、高度1万メートル上空のことでした。

それは広島の原爆記念の日の夜の、日本の景色でした。

明日は八月九日。
長崎の原爆記念日です。

(20:43
嬉野)