2011年12月22日(木)

嬉野

2011年12月22日(木)
嬉野です。
昨日はDVDの副音声の録音日でしたから、ミスタさんと録音ブースで藤やんと三人で語らいました。
ミスタさん、風邪引いたのか鼻をかみながらのトークとなりましたが。
聞けばミスタさん、この頃はアウトドア的な人になったのだそうで、今ならユーコン川リベンジも辞せず的な話でありましたよ。行きたくはないけど、行けなくもない。そういうことらしいですね。
さて皆さん、年末ですね。
もうすぐ今年も終わるのですが、いつもながらそんなに年末気分が世間にあるわけじゃなく、このまま、年末気分も盛り上がらず正月気分も湧かないままに新年を迎えるのだろうなと思いながらも、今年はね、とうとうそういうことにも反応しなくなったと言うか、年末年始ムードが世間にないからといって別に不思議でもなく、いや、そういえば、そんなことは殆ど気にならない身体に自分はなってしまっているなということに気がついたわけでしてね。
あぁこうやって人は、頭がからっぽになっていくばかりなんだなぁと、思いました。
こうした時代にはね、昔編まれた文化人類学的な民俗学的な書物を読むのがいいのではないでしょうか。
日本人だってこの列島に長い歴史と文化を持っているんだから、日本がこうなる前の日本人に興味を持って調査せずにはおれなかった学者さんたちの残された本というのがあるわけで、そういう書物をこんな空っぽな時代には読むがいいだろうね。
思えばですよ。これまでも、そしてこれからも、人間は必要に迫られ立ち働き、切実な気持ちの中で文化というものを作り上げ受け継いできたのだろうから、
生きている環境が変わってしまえば、誰もが当たり前に感じて受け継いで愛着を感じてきた文化も、だんだん継承するのが辛くなってくるのは仕方がないよね。
だって雪国にあるかまくらという風習だって気候が変わって雪がまったく降らなくなったら、続けていくためにはなんらかの方法で雪を大量に作り、雪の溶けないように温度管理できる室内に作り続けるしかないから、それは相当お金も掛かるし、というか、そこまでのことになっていくと、気分的にも続ける意味がだんだん見いだせなくなっていくだろうから、その風習に付随して培われてきた精神的な文化もムードも消えて無くなっていくことは、いたしかたない当たり前の流れなのだと思うよね。
からっぽになっていく時代の中で、そういえばどうして昔は空っぽじゃなかったのかを考えるのも、意外と頭が気持ちいいことになるのにつながるんじゃなかろうかという予感がありますですね。
人類は、こんなに空っぽでいられる時代をかつて経験したことがないはずだから、この先いったいどこまで空っぽでいられるだろうかという、つまり現代日本と言う世間は、実験の場でもあるのだろうね。
こういう時代にはね、自分の周りだけでいいから、人との付き合いを大事にしたいなと思い努めて、周囲と付き合うことをした方がいいような予感がします。
ひょっとするとこの先、何をしても時代は好い方向には進めないのかもしれませんよね。
誰が指導者になっても上手い具合に世の中は改善されてはいかないような気もします。とうとうそんな時代なのかもしれません。
時代は坂を転がり落ちていっているとしても、人と人が仲良くしていればそれで人生は充分楽しいのだから。空っぽに負けず、仲良くできる人を大切に思って、朗らかに和やかに生きていくのが得だと私は思います。
だから諸氏。
この先もずっと、我々は仲良く呑気にまいりましょう。
では、本日も各自の持ち場で奮闘ください。
解散
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(10:02 嬉野)