2011年5月18日(水)

嬉野

2011年5月18日(水)
さて嬉野です。
昔ね。
あれは結婚する少し前だったから、
20年くらい前だったね。
ぼくもまだ、東京でひとり暮らししてた頃だったね。
その頃、仕事でホスピスに取材に行ったことがあったね。
行っていろいろ話しを聞いてるうちにね。
「ホスピスって好いなぁ」と思って帰ってきたことを今でも覚えてる。
もちろんこれは嬉野さん個人の意見よ。
だから、あんまりとやかく言わないで欲しい。
なんで好いと思ったのかも、
上手く説明は出来ないけど、
それにもう20年も前の事だから、
古い話に過ぎないのかもしれないしね。
でも、ホスピスのスタッフの方が、
患者さんと「お別れ会をするんです」という話をされてね、
それ聞いてるうちにそう思ったんだと記憶してます。
いや、もちろん、そんな会をしたからと言って、
スッキリとお別れなんか出来るわけない。
でも、なんか好いなぁって思ったの。
できれば、
お別れをして終わりたい。
そう思うところがあったのかな。
そして、お別れをするためには、
「死」を、やがて自分にも訪れるものとして認識している人たちとじゃなきゃ、お別れは出来ないとも思ったからね。
ホスピスは、治療ではなく、
痛みの緩和をしてくれるんだよね。
うちの親父はね、
肝臓を悪くして、亡くなってもう9年経つけど。
その親父が、晩年、ぼくに電話をしてきてね。
突然、電話してきて。
その時、ぼくはもう札幌にいたけど、
札幌に越してから「どうでしょう」が忙しくて、
何年も帰っていなかったの。
それで、ほんとに久しぶりで、
「おとうさんの肝臓もだんだん悪くなるのよ」と、
そんな話はそれとなく家族から聞いてはいたけど、
その当の親父から電話があって、
「おまえに相談があるんだが…」というのね、
「このところ、盛んに医者から手術を勧められるのだけれど、自分はもう何もしないで、この寺の住職として、この寺で(うちは実家が寺ですからね)最後を迎えたいと思うのだけど、どう思うかな…」と電話口で言うのね、
ぼくは、ホスピスや、いわゆるターミナルケアというものについて取材をした記憶があったから、
「おとうさん。オレはおとうさんの意思に従うよ。それで好いと思うよ、多分、その方が好いと思うよ」と賛成したのね。
親父は、ほっとしたようで、
「今晩、家族に話してみるよ」と言って電話を切ったのね。
翌日、また親父から電話があった。
「おまえに昨日、あんなことを言って申し訳ないんだけど、みんなに反対されてね。やぱり手術をすることにしたから。右に左にころころ動くようでおまえには申し訳ないが、そうすることにしたから」
そう言って電話を切った。
ぼくは正直、意外だったの。
家族の激しい反対が。
「手術をすれば好くなるとお医者は言うのに、おとうさん、どうしてそんな消極的なことを考えるんですか!ひどいよ」と、
かなり激しく反対されたようで、
その辺りの事は、後日、家族のだれかれに電話した時に聞いた。
その時、みんなは、親父の気持ちが理解できないと憤慨しているに近かったよう。
「もう、おとうさんはおかしいのよ」みたいにね。
親父は、自分の身体のことだから、
医学的な根拠ではないところで、自分の先をイメージしていたと思う。もう、終わりは、そう遠くないところに来ているってね。
だから、自分の人生の終わりを準備したかったのだと思う。
宗教家としてもね。
そうして、準備しながら、家族とも、信者さんとも、
最後のお付き合いをしていきたい、
自分が「これから死んでいく者」として、
近しい人たちと付き合って行きたいと思っていたのだと思う。
でも、家族には、それが理解できなかったようでね、
「どうして積極的な姿勢を捨てるのだ!」という憤りに近いものとして反対したようで、もっともその憤りの裏には、もっと父と暮らしたいという愛情があり、別れたくないという想いがあったからだというのもよく分かった。
こうして親父は、家族の勧めに従って手術をした。
そして劇的に回復して元気になった。
お医者の言う事は正しかったし、
家族も父も喜んだ。
そうして、親父はそれから4ヵ月後に亡くなった。
最後は、あっけなかった。
バタバタとして、あわただしさのなかで死んでいった。
満足に、家族とお別れをすることも出来ずに。
親父が亡くなってから、
家族のだれかれが話すようになった。
「おとうさんが、最初に言ってたように、手術しないでお寺で最後を迎えてたら、どうだったろうね」と。
その言葉を聞いて、誰もが、うつむいて静かにため息をついた。
そんな言葉が、家族の口をついて出るくらい、
それくらい、父との別れはあわただしかった。
誰もが父と、満足にお別れをすることも出来ずに、
父との別れを経験するはめになってしまったのだと思う。
父は、手術をして、劇的に回復して、
死を受け入れようとしていた自分を、
積極的に粉砕したのだと思う。
そこから父はもう、自分にとっての死は、
まだまだ遠い先のことだと認識を新たにしてしまったのだと思う。
そうして容態が悪くなるの一方の時も、
医者から事実を聞かされる家族の心配とは裏腹に、
父は、自分が死を迎えつつあるという実感を最後まで持てずに苦しみ苛立っていた。
実際問題として、
満足なお別れが、出来るのか、出来ないのか、
それは分からぬこととしても、
いずれにしても、
長の別れを双方が静かに受け入れるためには、
送るほうも送られる方も、
そういう者として見、また見られるという日々を、
幾日も幾日も過ごす少なからぬ時間が必要なのだと、
あれからぼくは思うのだよね。
いつかぼくらは死んでしまう者なのに、
積極的に死を受け入れる準備をしようとする者たちを、
どうしても消極的、無策と思いがちのような気がする。
そう思うのはおそらく、
「自分は死なぬ者」と思っているからのような気がする。
多くの人が生きているのだから、
立場はそれぞれに違うだろう。
けれど、どんな立場の人も、
それぞれの立場のままで、
同じ視線に立てる場所があるはずだと、
ぼくは思っているのです。
その場所を探し出したとき、
初めて他人事が、自分の事とシンクロする。
だから、探すべきは、その場所。
そのビジョンなのだろうなと思うの。
何事もね。
それぞれの立場の人が、それぞれの立場のままで、
同じ視線に立てるビジョンを探そうとしない限り、
ぼくらは淋しさからは抜け出せない。
そんなことを思うのよ奥さん。
さぁさぁいろいろあるでしょうが、
どうか本日も、
各自の持ち場で奮闘ください。
また明日。
解散。
(15:43 嬉野)