2009年3月13日(金)
2009年3月13日(金)
嬉野です。
小学生の頃でした。
親父から聞かされた話があります。
それは日本がアメリカと戦争していたころの話です。
日本軍はアメリカ軍の猛攻にあって壊滅的な打撃を受け。
もう組織的に戦うことが出来なくなって。
それでも。
日本軍は戦闘行為を止めてはならず。
兵隊たちは、散り散りになってジャングルを逃げ続けていた。
そんな日本の兵士の話です。
場所はフィリピンとかビルマとかニューギニアとかだったと思います。
その兵士の戦友は敵の砲撃で死亡して。
兵士は戦友の遺品を日本に持ち帰りたいと思って。
遺族に戦友の遺品を渡してあげなければと考えて。
遺品をどれにしようか迷っていました。
兵士は疲れていました。
とてもとても疲れていたのです。
いえ。
その兵士だけではなく。
日本軍の兵士は皆疲れていて。
そして皆、どうしようもなく腹を空かせていたのだそうです。
兵士は考え抜いた末に、戦友の名刺を一枚抜き取り。
この名刺を遺品として日本に持ち帰ろうとポケットに仕舞いました。
一番軽かったのです。
こうして兵士は逃げました。
もう身体も気持ちも、ぼろぼろで。
でも、死にたくは無かったので歩き続けました。
右足を出し左足を出し。前に進むのでした。
兵士なのに。
もう武器も持っておらず。
重いものはみんな途中で捨ててしまいました。
服もぼろぼろで。
ただ幽霊のような足取りになりながら。逃げました。
どれくらい経ったころでしょう。
逃げながら。
兵士は自分の左肩がモーレツに重いことに気づきました。
でも荷物はもう何も持ってはいないのです。
それなのに左肩がモーレツに重い。
兵士はよろめきながら左の胸のあたりを触ってみました。
すると、左の胸のポケットに一枚の名刺が入っていました。
戦友の名刺です。
兵士は名刺がこれほど重いのだということにその時はじめて気づきました。
でも、捨てるわけにはいきません。
これは戦友の遺品なのです。
日本で彼を待つ彼の遺族に。
彼の父に。彼の母に。手渡さなければと兵士は強く想いました。
でも。どうしようもなくその名刺は重かったのです。
兵士は、朦朧とする意識の中で必死に考えました。
そうして名刺の端を少しだけ。すこしだけ。指でちぎりました。
そうしてまた。歩きだしました。
それでも。
少し行くと、また左肩が無性に重くなるのです。
兵士は立ち止まり。またポケットから名刺を取り出しました。
そうして、また丁寧に名刺の端を少しだけ。ほんの少しだけ指でちぎりました。
そうしてまた歩き出すのです。
でも。
それでもどうしても左肩が重くなる。
兵士は立ち止まって。
また名刺の端を少しだけちぎる。
それから幾日歩いたでしょう。
運好く兵士は日本へ帰る引き上げ船に乗ることが出来。
そうして無事に日本へ帰りつくことが出来ました。
こうして兵士は、戦友の遺品を遺族に渡すという責任を果たすことができたそうです。
でも、遺族の手に渡された時。
その戦友の名刺は。
ほとんどの部分がちぎられて、
ぎりぎり戦友の名前が刷られているところばかりが小さく小さく残った、奇妙な奇妙なものになっていたのだそうです。
その話を親父は子供だったぼくにして。
そうして親子して。
うすっぺらい名刺一枚が耐えられないほど重くなるのだと言う。
極限状態に追い込まれた人の身の上に、遠く思いを馳せるのでした。
その親子の感慨から30年以上経ち。
話してくれたぼくの親父も病気で死んでしまい。
すっかり分子になってしまった二年後。
ぼくはロケでマレーシアのジャングルを歩きました。
ブンブン・クンバンという動物観察小屋を目がけて。
植物の繁茂する登山のような険しい山坂の道を11キロ。
熱帯の太陽に照らされて7時間歩き続けました。
栄養の行き渡った身体でも、
45歳の身体は最後にはへとへとになり。
本当に最後の辺りでは歩くのがやっとで。
背負ってた荷物は大泉くんに背負ってもらいながら。
1キロ以上あるビデオカメラは、もう重くて胸の前で構えることも出来ず。
ただ左手に下げてしまい。
それでも途中で何かあるといけないと思い。
ビデオカメラのスイッチだけは切らず。
テープを回しながら左手に下げたままで歩いていました。
画面は多少ぶれても、音声が入れば使えるからと、
ずっと回した状態にして、ただただ左手にぶら下げて歩いていました。
でも。
そのことがある時点から気になって気になってしょうがなくなったのです。
カメラが回っていることがです。
撮影していると言うことがです。
ブレブレの画になっているはずです。
もう画作りには微塵も気を使ってはいないのです。
でも撮影しているという。
その一事が気になって気になってしょうがなくなった。
そしてカメラのスイッチを切りたくて切りたくてしょうがなくなった。
自分でも不思議でした。
なぜならビデオカメラのスイッチを消したところで、
カメラの重量は減りはしない。
変わらず重いのです。
だからそう思って。
そう自分に言い聞かせて歩くのです。
ですが。
それでも撮影を続けているのだという状態に、
やっぱりぼくは我慢が出来ないのです。
モーレツに歩くのが辛くなるのです。
そうしてぼくはとうとうビデオカメラのスイッチを切りました。
その時、うそのような開放感を味わいました。
身が軽くなったのです。
ぼくは、いま分かります。
あの兵士は名刺一枚が重かったのではなかったのです。
遺品としてどうしても持ち帰らねばならないという、
その責任が重かったのです。
テープが回っている以上。
撮影している以上。ぼくには責任がある。
ぼくは勝手にそう思い込んでいたのでしょう。
その責任をぼくに課していたのは、ぼく自身だったのです。
そんなこと日ごろは意識したことも無かったのです。
でも、ぎりぎり追い込まれた時。
ぼくは身をもって感じたのです。
責任には実際、重量があるということを。
その責任は自分が自分に課したもので。
そしてその責任の重量は人間を押しつぶせるほどだということを。
責任は間違いなく人を押しつぶすだけの重量があります。
責任感の強い人はなおさらです。
日ごろは気づかないだけです。
気づかないままにぐりぐり押されているのです。
そういうことがあるのです。
無責任になれと言っているのではないことは。
お分かりいただけていると信じます。
そんなバカなことを言っているのではない。
ただ気をつけろ。と。
申し上げているだけです。
責任にはとてつもない重量があるのだということを。
まともな人ほど、責任感があるのだということを。
そして、まともな人が多いほど、社会は豊かになるのだということを。
ぼくらは、誰もが、まともでいたいと思っているのです。
そうして責任を果たしたいと願っているのです。
でも、自分の身の丈を越えた責任も持ってはいけないのです。
それでも知らぬうちに持っている。
だから身の丈を越えたと少しでも感じたら。
その分だけ、
ちぎって捨てていくほうが好いのです。
その方が好いのです。
そうすれば、あの兵士のように、
かろうじて自分を無事に保ったまま。
自分に持てる重量の責任にして、
果たすことができるのです。
そんな話です。
ただまぁ、長々書きましたが、
あてずっぽうですから、残念!大間違い!
と言うことは当然あります。ねぇ奥さん。
しかしまぁ。
わたしゃそう思うと言うことです。
さて、
藤やんは今日お休みで。
来週の月曜日もお休みです。
ということでね。
今週はこれで解散です。
それでは奥さん。
また来週!
(18:22
嬉野
)