2013年12月13日(金)

嬉野

2013年12月13日(金)
こんちわ奥さん。
嬉野でございます。
あれは1981年のことでしたから、
もう32年も前のことになりますか。
私はまだ21歳でしたから、
顔に幼さすら残る若者だったでしょうか。
あの頃、日本はまだバブル経済に突入する前でしたから、世の中には70年代と変わらない呑気の風が吹いておりました。
日本人はもうとうに貧乏ではなかったけれど、それでも長年民族の中に刷り込こまれた貧乏臭さというものはなかなか抜けなかったようで、日本人は誰しもが依然として金持ちより貧乏の方に親しみを感じておりまして、庶民的という言葉が本当に似合いの時代でした。
若者は貧乏暮らしをするのが当たり前と本人も世間も思っておったものでした。
もうみんな貧乏ではなくなっていたのに、みんな相変わらずお金持ちより貧乏の方を馴染み深いと思ってしまうあの気分が、あの頃、呑気の風を世間に吹かせていた根拠だったのだろうなぁと、今、私は思うのです。
と、まあ書いてますけどね、
私は今日ね、猫の話をしようと思って書き始めたんですよ、
だけど、前段でついついあれこれ思い出しちゃったものですから、思いのほか前段に手間取って、
いっこうに猫に辿り着けない。
まあ、好いですね、昔話を続けますよ。
それでも70年代の終わり頃から変化して来たのは海外旅行でした。
70年代の庶民は自分が気軽に海外旅行の出来る身分になるだなんてまだ誰も考えもしてなかったんだけど、
それでも1978年頃から雑誌ポパイが北米西海岸のショップの情報を紙面に載せ始めていてね、
それを見た、九州の田舎高校生だったぼくは唖然として
「誰がアメリカまで服買いにいくよ」
と思って記事を読んでいたのでしたが、
庶民が普通に自力でアメリカくらい行けちゃう時代にはきっともう、なってはいたのでしょうね。
当時まだ高価だったけど、ダウンジャケットも既に出現しており、ダウンジャケットは買えないけど、ジャケットよりはダウンの量の少ないダウンベストを着て羨ましがられ、「なにそれ?あったかいの?」と珍しがられていた友人も、1978年頃には、すでにおりましたし、同じく1979年頃にはデザイナーズブランドの服も若者の間で流行り始めてもいたのです。
それでも携帯電話やらパソコンやらはもちろん影も形もありませんから、当然メールなんて出来ません時代です。
世間の連絡事項はもっぱら電話一本です。
でもその電話だってお部屋に引くためには工事費や電話料金だけでなく電話債権という、今となっては、なんだかよく分からない高額な債権を買わなければならない取り決めがあったもんですから、まとまったお金がない若者の侘び住まいには、なかなか電話も引けずでしたし、そんな時代ですから、往来には公衆電話が乱立しておりまして、渋谷や新宿やらの電話ボックスの前には順番待ちの列さえありました。
人々は知らぬ間にすっかり電話に頼っておりましたから、あの頃、既に若者は手紙を書くことはあまりしなくなっていたのです。
それでもね、貧乏旅行中の友人が旅先から送ってくる絵葉書にはロマンがありました。
郵便受けの中の郵便物に混じった絵葉書。
旅先という手の届かないところにいる友の足取りを羨ましく思い、こことは違う時間の流れを感じることで、どこか遠くにある町の風情にうっとり思いを馳せることが出来る時代だったのだと、今は思います。
携帯電話なんて夢にも思わない時代でしたからね。
手の届かない、思いの届けられない領域が生活の身近なところにたくさんあって、届かない届けられないのは当たり前と思う自分がいたから、そのぶん「想像力という」自力で思い描く時間が、何か大事なものをぼくらの中で育てることをしていたのかもしれません。
きっといろんなところにあったそこそこの不便が、ゆったりとした呑気の風を呼んでいたのかなって、思います。
ゲームはアーケードゲームが華やかな頃で、テレビゲームの火付け役は、1979年に出現したインベーダーゲームの大人気振りでした。
インベーダーゲームの人気は物凄かったのです。
不況に強いと言われたパチンコ屋さんに誰も行かなくなるという事態が起こり、誰もがインベーダーゲームに百円コインを投入し続け、パチンコ屋さんが潰れそうだ!と言われるくらい日本人は目の色を変えて来る日も来る日もテレビゲームというものの虜になっておったのです。
でも、そんな流行り病も1980年頃には落ち着きを見せ、パチンコ屋さんも潰れることなくお客の流れは旧に復して行ったようで、
プレステはもちろ、ファミコンさえまだ登場以前でしたから、任天堂さんは実直にトランプや花札を作っておられたのであろう(内情は知りませんが)あの時代、
東京の賃貸アパートにはお風呂がないのがまだ普通でした。
それだから町には大きな銭湯が必ずありまして、夜中の1時くらいまで営業しており、当然ながら銭湯は毎晩大にぎわいでありました。
彼女と二人で夜更けの銭湯に行く。その風情にも貧乏臭さ無しでは味わえない慎ましく穏やかなロマンがありましたあの時代。
コンビニもね、ポツポツ出来つつある頃ではあったんですが、セブンイレブンさんの営業時間だって、まだ朝7時から夜11時までという名前通りでの営業でしたし、
年末年始はスーパーも商店街も定食屋さんも完璧にお休みになっていた頃でしたから、年末年始の食糧買いだめやら何やらは是非もので、
アパートぐらしの独身者は年越しの緊張感やら里帰りの段取りやらで気ぜわしくも妙にソワソワと楽しげなムードに包まれる身の上でした。
そんな時代の独り者の暮らす6畳ひと間には、テレビがあり、バイトして買ったデッカいオーディオセットがあり、狭い部屋をなおさら狭くするベッドがあり、毎晩夜更かしをし、気の合った友だちと集まって夜遅くまで呑んで話をするのが何より楽しい娯楽で、
大人漫画雑誌がいっぱい出版され、電車の中の暇つぶしに盛んに読まれ、読み捨てられ、それをまた拾って読み、漫画文化は爛熟し、多くの漫画家を育て、出版社は大きくなり、
音楽は突如CDの時代になってはいたけど、まだレコードもあり、貸しレコード屋が流行り始めており、ビデオの時代は目前だったけど、まだ庶民にはビデオ登場の影すら見えず、
文字はすべて手書きだったし、今より漢字もいっぱい書けてたし、パソコンもワープロさえも無かったあの時代。
あれは、そんな時代の、ぼくが22歳の誕生日を前にしていた、ほんの21歳でしかなかったある早春の宵のことです。
あぁ、やっと本題です、始まりました。
東京の高円寺のぼくのアパートの部屋に友達が4人ほど集まって電熱線でスルメを焼いてお酒を飲んでいたところへ、ずいぶん近いところでいきなり猫が鳴いたのです。
「今、ずいぶん近いところで猫が鳴いたなあ」
と、奇妙に思うほど、それはそれは大きな鳴き声のように思ったけど、周りの誰も気にする風で無く。
はて、あれだけのハッキリした音量であるにもかかわらず誰も気づいていないということは自分の空耳であるのだろうかと思えば、
「ねえ、今、猫が鳴いたよねぇ」
と、喉のこの辺りまで確認してみたい気持ちがこみあがっているのだけれど、
でも、あれほどはっきり聞いた鳴き声が空耳であるということを自覚するのもなんだか却って怖ろしいようで、妙に臆して切り出せず、
いや、でも、ぼくの部屋は表通りに面した木造モルタルアパート二階の角部屋で、窓枠も時代遅れの木枠であり、アルミサッシですらないのだから、通りで鳴り渡る喧騒も窓を閉めたところで昼夜を問わずに無遠慮に入ってくるような安普請であることを考慮に入れれば、往来で鳴く猫の声もどこかで器用に反響増幅され、あたかも耳元で鳴いたように聞こえたかもしれずと、今一度、思い直せば、
確かに気にすることでもないような気がして来たのだけれど、それにしてもずいぶん近かったよなあと思ったところへ、もう一度、鳴り渡るサイレーンのような調子で猫が鳴いたのです。
その鳴き声の音源がやっぱり今度も近過ぎて。
そしたら、その声に今度は集まっていたみんなも互いに目を見合わせ始めたから、これは空耳ではないとぼくは立ち上がり、半畳の流しの前にある玄関ドアの前まで進むと外の様子を眺めるべく、思いきってドアを押し開けたのです。
すると、その瞬間を待っていたかのように一匹の白と灰色のトラ柄の猫がぼくの足下を悠々すり抜けて部屋の中へ当たり前のような足取りで入って来て。
怪談話のとば口に立つが如き緊張感も、この猫の悠長さであっけなく霧消してね、そのおっとりした動きは人慣れして部屋慣れした猫のそれでした。
なんだ、ただたんにすっげえ近くで猫が鳴いただけだったのかと分かると、全員ホッとするやら拍子抜けするやらで、とりあえず迷い猫という珍客を受け入れ無駄話の席は続いたのです。
東京暮らしの独身者と猫。
孤独な都会の独り者と孤独を棲家に生きるように見える猫とは接点が多いのか、新参の猫は違和感無く車座の中に居場所を得ていました。
ぼくはそれまで猫を飼ったこともなく、猫の扱いなど知りもしなかったけれど、小動物は嫌いでなかったからスルメを与えてみたところ、よほど空腹だったのか猫はこれを旨そうにペロッと食べてしまったのです。
あとで知ったことだったけれど猫はスルメを食べると中毒を起こすそうで。確かにしばらくして猫の様子がおかしくなり始めた。目がなにやら白眼をむき始め口元を見れば若干の泡を吹き始めている。
俄かに急変して行く猫の容体を見て、集まっていた友人たちは、このままここにいては、再度、怪談話のとば口に立たされかねないとでも思ったか、なんだか突然大事な用事でも思い出したようなそぶりを見せ始め、「さあ」とか「じゃあそろそろあれだな」とか、急にソワソワし出すと、猫の臨終になんか立ち会いたくないと口々に言いながら慌てふためき帰って行った。
部屋にはぼくと臨終寸前の猫とが残され、ぼくはスルメ中毒とも知らず、きっと年を取った猫がこのぼくの部屋で最期の時を迎えるためにあぁまで大きな声で鳴いてオレを呼んだのであるかもしれぬし、と思えば、これも縁あってのことだったのだろうと覚悟を決めると、目を白黒させているやつを膝に乗せ、最期を看取るつもりでいた、けれど。
なんだか猫は死ぬこともなく、そのうち徐々に正気を取り戻して、その後は毒気も抜けたのかぼくの膝から畳の上にペタンと下りると、何事もなかったようにひとつ大きく伸びをして、そのままベッドに飛び上がり、身体を丸くして気持ち良さそうに寝てしまったのです。
その日から猫はぼくの部屋に居つき、ぼくは翌日からスーパーで猫砂やトイレ用のバットを買って、この部屋で猫が暮らせるような設備を整え、段々に猫を溺愛していくわけで。
見ればその猫は首にノミ取りの首輪をしてもらっており。その首輪にはさらにチリンチリン鳴る鈴もついていて。明らかに飼い猫だったようで、それが、いったいどんな事情があったのかは知らないけれど、ある日、なんとはなしに放浪の旅に出てしまい、以来、元の棲家に戻れぬまま、こうして何の因果か我が家に住み着くこととなったわけで。
とくだん痩せてもおらず汚れているわけでもなかったところを見ると放浪を始めてそれほど日も経ってはいなかったはずであり、ぼくはどことなくおっとりした物腰のこの猫になんだか自分を見るようで、「若旦那」という名前をつけて可愛がることにしたのです。
翌日、若旦那を近所の公園に連れて行き放してみると、近所のガキどもが繰り出す挙動が怖かったのか、一目散に近くの木に駆け登ったまでは敏捷で良かったが、
夢中で上がった木の上から下を見下ろせば、今度は降りるのがさらに怖かったらしく幹にしがみついたまま鳴いて救いを求めるというなんとも情けないていたらくでね。
スーパーで買い求めて来た猫缶も日をあけず同じ物が続くと飽きるようで、前足であっち行けとばかり畳を掻き掻きして食べようともしない。どうにも猫は我が儘だなぁと呆れたものでした。
ところがこの若旦那、しばらくして元気がなくなってしまったのです。
急に食欲が無くなり、あんなに綺麗なピンク色だった鼻の頭が真っ白になって血の気が引いている。
ぼくは気になって若旦那を抱えて、以前風邪でも引いたかと思い、連れて行って結局病気でも何でもないと言われた近所の犬猫病院へ急いだ。
獣医は「またお前か」という渋い顔でぼくを迎えると「とにかくきみは動物を過保護にしすぎるんだ、動物は全体に強い物だから何か気になったと言ってそういちいち連れて来ていてはこちらとしても迷惑だ」と言わんばかりの剣幕だったが、とにかく明らかに状態がおかしいので診るだけ診てくださいと猫を差し出すと、仕方のないやつだと言わんばかりの顔で不祥無精触診を始めた。
ところが急にハッとした顔になり、獣医はさらに若旦那を触り、バツの悪そうな顔で「これは肋膜炎だね、すぐ水を抜かないと」と注射針を刺して水を抜き始めた。
獣医は「申し訳なかった」というような言葉をごにょごにょ言っていたが、「大丈夫でしょうか」というぼくの問いかけに「いや、もうこれで大丈夫。薬を出しておくからそれを毎日飲ませてください」と言ったので、ホッとして若旦那を抱いて帰ってきた。
獣医がとにかく安静が良いと言っていたので、部屋に戻ると若旦那を小さいダンボール箱に入れて、良く眠るようにとそのまま暗い押入れに入れて寝かしてみた。
若旦那は心持ちホッとした顔をしていたように見えた。水を抜いてもらえたのが良かったのだろう、翌日から若旦那は蒲鉾を差し出すと少したべるようになったから、大好物だった鳥のささみも買って来て食べさせた。
そのうち段々に鼻の頭にもピンク色が戻ってきた。
猫でも恩義は感じるようで、若旦那はそれまでとは違う素直そうな目でぼくを見上げるようになり、ぼくの手から細く割いたカニカマをパスタのように器用に食べるのだった。
肋膜炎を乗り越えて回復した若旦那は、ぼくの胸の上で丸くなって寝るようになり、ぼくらはなんだか仲良しになった。元気になってからは日中は外に出し半野良で飼い始めた。
ぼくが夕方、アパートにかえってくると、どこで待っていたのか猛烈なスピードでぼくの前を横切り一目散にアパートの階段を駆け上がると一足早く部屋のドアの前でキチンとお座りをして、ぼくが階段を登りきるのを待つのだった。
くる日もくる日も夕方になるとそれは儀式のように行われ、また次の日も続けられ、ぼくの前を横切り階段を一散に駆け上がってぼくを待つ若旦那の姿を見る度になんだか経験したことのない幸福感が募っていくのが自分でも分かった。
そうして夕方の陽射しの中で繰り返されるその行為が、なんだかお互いに渡された絆の確認をする場のような気がしてくるのだった。
若旦那は夜になるとぼくに寄り添いぼくの胸の上で眠るようになった。
ある休日の朝のことだった。窓の外から甘えたように鳴く聞き覚えのある猫の声がした。窓から顔を出して見下ろすと、果たして往来の歩道からぼくを見上げるあいつがいた。どことなく困ったような弱ったような、「どうしたら良いのでしょうね」、とでも言いたげな、助けを求めるような甘えた声を発しながらあいつはぼくを見上げていた。
そして、そんな声を発する理由と分かる位置に若くて可愛いメス猫が従っており、「あの人だぁれ?」とでもいうような顔で同じようにぼくを見上げていた。
若い二匹の猫は、なんだかお似合いで、同じようにぼくを見上げるその並び姿の初々しさが、なんとも微笑ましく見えたのだった。
その晩遅くなっても若旦那は帰ってこなかった。
猫も恋する春になったのである。
だが、翌朝早く、傷だらけの血だらけで若だんなは帰ってきた。
明らかにどっかから現れた屈強な雄猫に喧嘩で負けてほうほうの体で逃げ帰ってきたのだろうと思わせる哀れを誘う姿だった。
あいつの初々しさは何処かへ行き、あいつは何処か屈折してしまったようでもあった。
若旦那の生きる猫の世界には意外に過酷な側面があるのだなとぼくは猫に対する考えを少し新たにした。
部屋に入れた時から思ったのだが傷ついた若旦那の身体からやたらとスースーするメンタムの匂いがする。
誰か親切な人が、傷口に軟膏を塗ってくれたようだ。
捨てる神あれば拾う神もあるのだぞと、ぼくは若旦那を励まし、世間様を思ってありがたくなるわけで、それはなんだかもう立派に保護者の心境であったのかもしれない。
だが、あいつは聞いている風でもなく不貞腐れたか疲れ果てたかで横になっていた。
やがてそんな春も過ぎ、暑かったその年の夏が終わる前。突然、若旦那は帰らなくなった。
幾日も幾晩も、ぼくは鈴を鳴らしながらアパートの階段を駆け上がってくる若旦那を待ったが、若旦那はそのまま二度と戻らず、それから30数年が過ぎる。
それでも、あの猫との間に数ヶ月続いた何とも言い難い関係は今も忘れられず覚えている。あいつはどうしてぼくに予告もなしに何処かへ行ってしまったんだろう。
当時付き合って居た女の人が、自分の顔のそばに、つらあてのようにウンコした若旦那のことを根に持って、ことあるごとに若旦那をいじめて居たから、
あれを苦にして家出をしたのかなぁ。とまぁ、
しまらない形でこの話は終わるのです(^-^)
今日の札幌は真冬日です。
最高気温は氷点下ですから、これで根雪になるのでしょう。
今年も本格的な冬が到来しました。
いつもあることが今年もある。
それはけして悪いことばかりではないのだろうと、
このごろは思う私です。
同じことが繰り返されることからくる馴染の中で、
人は安心して営みを続けられるのだと思いますからね。
変わり映えのしないこともまた、大事なことですわ。
さぁそれでは諸氏!
本日もまた、各自の持ち場で奮闘願います!
解散。
(14:02 嬉野)