2013年12月9日(月)

嬉野

2013年12月9日(月)
こんつわ奥さん。
嬉野でごわす。
わたし自身もそうだったのでね、
長く考えもしなかったことだったのだけれどね奥さん。
その〜。子供たちが成長してね、
やがて家を出ていくという流れにね、
ぼくは何の違和感も持たずにこれまで人生を送ってきたのだけれどもね。
でも、その家で生まれた子供たちがね、
一人残らずその家を出たなら…、
(結婚しないで家に残っても同じなんだけどね)
いや、
残った親や出て行った子供たちが若いうちはそれはまだ分からないんだけど、
でも、
やがて両親が老夫婦になってしまう頃には分かってくるんだよ、
この老夫婦が死に絶えてしまえば、その家は空き家になってしまうということがね。マンションもそうだよ。
そして、そんな家族の流れが、もし隣近所、いや、ほとんどすべての日本の家庭で普通に違和感のないこととして今も起きているのならね、
子どもたちが生まれたその家には、やがて誰も住まなくなる日が来る…。
そして、そんな家はその家だけじゃないというのだったら、
その先には、確実に人が住まない家ばかりができて、誰も人が住まない町が確実に出現するということなのだものね。
つまり、やがてこの先、順番に町がなくなっていくのを、
ぼくらは目の当たりにしなければならなくなるんだね。
ずいぶん前から大きな団地で始まっていたことは、そういったことだったんだなって今更のように思ったのよ奥さん。
それはなにも団地だけのことじゃなかった、
核家族を続ける限り、町が無くなるって運命は、
ずっと続いていくことなんだね。
家が空き家になり、そんな空き家が増え、人の住まなくなった町が荒廃していく光景をこれからは珍しくもないものとして見ることになるのねえ。
これまでは見えなかっただけで、これからはそれがあちこちで見え始めてくる、これからはそんな時代なんだね。
見慣れたものが次々と姿を消していく時代。
そのことを具体的なビジュアルとして見せられていく時代。
これからはそんな時代になるんだよね奥さん。
50年ほど前から始まった、豊かな日本社会が、
「家付き!カー(自動車)付き!ババ抜き!(姑がいない)」
と元気に叫びながら、核家族社会が若者たちの明るい未来として受け入れられて50年近くが過ぎてきたように思うけど、
でも、その幸福のイメージが最終的にもたらすものが何だったか、
それをこれからぼくらは見せられるんだね。
そんな時代に入っていくんだね。
これからは、独身者が賃貸で住む、大都会のアパートやマンションで形成されているような町だけが、独身者が出て行った後の部屋にもまた独身者が入ってくるから、町は営みを続け、ぼくらに馴染のある町としてこの先も残る。
今もね、シャッター商店街にならないで、活気ある昭和の風情を残した商店街は、地方じゃなくて東京なんかの大都会にしかないものね。
これからは、そのことがもっと顕著になっていくんだね。
だったらみんなが都会に抱くイメージも、
やがては今とまったく違ったものになっているのかもしれない。
「都会の町の方が、人間味があるよねぇ〜」って。
ふうにね。
そんなことを思いましたのねぇ。
さて、本日の世迷言はこれにて終了!
それではみなさま!
本日も各自の持ち場でよろしく奮闘願います!
解散!
明日は、明日の心だ!
(13:41 嬉野)