2007年10月10日(水)

嬉野

2007年10月10日(水)
嬉野であります。
なんでしょう、うちの奥さんと結婚する直前の頃にね。
だからあれだ、もう19年くらい前の頃にね。
だからぼくもあれですよ、29歳とかでしたね、奥さん。
嬉野さんも20代。今はもう48歳。
ねぇ。どうなるんだろう今後のわたし。
そんな昔の、とある秋の暖かい昼下がりにね。
だからまぁ、ちょうど19年前の今頃ですよ。
ぼくが、仕事だったか休みだったかは忘れたけど、新宿駅の総武線のホームへ向かって階段を上がろうとした時にね。
ひとりのお母さんに呼び止められましてね。
あのお母さん、あの時、38歳くらいだったろうか?
いや、もっと若かったかな?
まぁいいね。
とにかく呼び止められたから振り返るとね、そのお母さんは、女の子連れでね。
女の子は車椅子に座っていてね。
その子、12歳くらいかなって思ったね。
ぼくを呼び止めたお母さんは、
「娘の車椅子をホームまで上げていただけませんか」
とぼくに言うわけです。
「あぁ、じゃぁお母さん、もう少し助っ人を探さないと二人で上まではきっと無理ですよ」とお母さんの体力を心配して言いましたらね、
「いえ、車椅子だけでいいんです、この子は自分でホームまで上がれますから」。
ということだったのです。
「あら、それならお安い御用ですよ」
と言いますとね、それを聞いたお母さんのホッとした笑顔の奥の車椅子の上にもね、ホッとして笑顔になっている女の子が見えましたよ。
女の子は、お母さんに助けられながら車椅子をおりてね、総武線のホーム目指して階段をゆっくりゆっくり自分だけの力で上がって行きました。
もちろん階段の手すりにすがってね。
ぼくは、女の子が降りて軽くなった車椅子を抱えてね、そのまま階段を上がりましたよ。
ぼくの仕事量は、それだけ。
女の子は手すりにすがりながら、ホームまで、ゆっくりゆっくり上がって来て、ホームでまたお母さんに助けられながら車椅子に座りました。
しばらくすると轟音と共に黄色い電車がホームに入って来てね、母娘は、それに乗ってするすると千葉方面へと去って行きましたですね。
その時のことを未だにね、ぼくは覚えていて、忘れられない。
で、ここに書いたわけですが、
まぁ、良い事をしたんだぜという自慢話じゃないですよ。
ただ忘れられない思い出になっているのよ奥さん。
あの日。
ぼくが、総武線のホームに上がろうとした時。
お母さんから呼び止められて。
娘の車椅子をホームまで上げていただけませか?
と言われてね。
好いですよって引き受けた時に。
見せてくれたその女の子の笑顔がね。
ずっと忘れられないのよ奥さん。
いきなりホッとしたような。
胸のつかえがスッと晴れたような。
なんかそんな好い笑顔だったから。
最初ね。
呼び止められて。
お母さんがお願いしますってぼくに言ってる時。
女の子の表情は、ほんの少し曇っていたから。
曇った顔で斜にぼくを見ていたからね。
それはそうだよね。
女の子には全部見えるんだよね。
頼んでいるお母さんの後姿の向こうに。
お母さんから頼まれている通りすがりの男の表情が。
ずっと見えているんだもの。
その女の子にはね。
お母さんの声は聞こえないけど。
お母さんの顔を見ていた男の目が。
次に自分に注がれる。
値踏みするようにチラッと自分を見おろす。
その時の男の表情がまる見えに見えるんだもの。
少しでも嫌な顔されたら心が痛むだろうと思います。
で、ホームの上で別れるまで。
その子の笑顔がずっと続いていたから。
あぁ、あの子。
ひょっとして嬉しかったのかなと、ぼくには思えてね。
もしかしたら、あのまま家に帰りつくまで、あの女の子は喜んでくれるのかなぁと思ったらね。
なんだか忘れられなくなりました。
ぼくは、その日一日、温かい気持ちが続いてね。
そして20年近く経っても思い出すのです。
好い思い出です、ぼくにとって。
車椅子をホームまで上げるという簡単なことで。
他人がこんなに喜んでくれるというのが。
ぼくには、眩しくてね。
そうやって喜んでくれた女の子の心根が眩しくてね。
いつまでも、あの日の事が心に残ったままなのですよ。
それでこの年になっても、あの日のことを覚えてる。
つまり忘れたくないから、あれから折に触れ、記憶を反芻してきたということなのでしょうね。
だから、あの日の事は、多分死ぬ時まで忘れない。
不思議なことです。
あの女の子は、もうとうに忘れたろうにね。
もうしばらく続くだろうぼくの人生の中で。
戻れることなら戻ってみたいひと時のひとつが。
あの日の総武線の階段でのひと時なのです。
すんませんね。
それだけのことなんです。
怒らんでください。
じゃ、奥さん。
お気を悪くされませんで、また明日お会いしましょう。
解散!
(17:56 嬉野)