藤村

3月5日金曜日。藤村でございます。
3月24日に受け渡し&発売のDVD第13弾「絵ハガキ・シェフ大泉・東北行き地獄ツアー」でありますが、ローソンロッピー端末での1回目の予約数が上限に達したため、予約受付が終了いたしました。
次回の予約は3月10日から。この分の受け渡しは4月7日となります。
尚、3月24日からはHTBオンラインショップでも販売が開始、また道内HTBグッズ取扱店でも販売開始となりますので、是非そちらをご利用下さい。
今回も無事、初回生産枚数がすべてはけて、皆様のお手元に届くこととなりました。
13枚目も無事に売れて・・・良かった。
今回のDVD、プレイヤーに入れたらまず出てくるアニメーション、短いですけど、いいですよ。
・・・今、嬉野先生が横でパタパタとうちわで顔をあおいでます。なんかもう体が火照るらしいですね。代謝がよすぎて。まぁ、じっくりと治ればと。
じゃ、また来週だ。
追伸
「日記本3」と鯨さんの絵本も御予約中でございます!ぜひ御検討を!
(18:23 藤村)

藤村

3月1日月曜日。藤村でございます。
本日より「日記本3」の予約開始でござます。
2004年の年明けから年末まで、1年間の日記を一冊にまとめたものであります。
2004年といえば、大泉さんのミュージックステーション騒動に始まり、2年ぶりの新作「ジャングル・リベンジ」、ミスターの韓国への1年間の映画留学、「どうでしょう本創刊号」で私と嬉野先生がスペインへと行き、そして年末には大泉さんが初の連ドラ「救命病棟24時」への出演が決定したと、そんな出来事がありました。
一方、この年の7月に新潟・福島豪雨、福井豪雨、9月以降は大型台風が続々と上陸し、そして10月には新潟県中越地震と、自然災害が多発した年でもありました。
思い出します。それらの災害に直面したみなさんから続々と寄せられる掲示板への書き込み。その生々しい言葉の数々を受け取るうちに、北海道で暮らす我々にとって、他人事でしかなかった出来事が、とても身につまされる出来事へと変わっていったことを。
当時、中越地震の数日後に行われた札幌でのトークショー「ミスター大壮行会」の収益を新潟に送ることを決めました。
あの時、賛否両論がありました。福井にも豪雨があった、台風被害の西日本もある、新潟だけに寄付するのはどうかと。そういう非難の声が上がる可能性があるから、やめた方がいい。最悪寄付してもいいが、ホームページに書くのはやめた方がいい、と。
でも私と嬉野先生は、トークショーの数日前からずっと新潟からの書き込みを読み続け、あの時はもうどうしようもなく新潟に何かをしたかった。「何かをする」というのは、「実際にお金を送る」という寄付行為ではなく、「金を送ったぞ」「おれらは心配してるぞ」と、「言葉に出して伝える」ということでした。言葉をかける、気にしてあげる、ということが、たぶん他人ができる最低限で、最大限の行為なんだろうということを、あの時の「書き込みを読み続ける」という体験で、我々は知ったからです。それで結局トークショーの最後に会場で言い、ホームページにも書きました。
日記本の原稿を読みながら、当時のそんなことを思い出しました。
日記というのは、その日に起こったこと、思ったことだけをただ書き記しているだけ。もちろん「明日大地震が起こる」なんてことは書かれてないし、「明日大地震が起こるから注意しよう」なんてことも書かれてない。ただその日、その日、目の前で起こることに対処しているだけ。
そんな過ぎ去った古い日記を読んで何の意味があるのか?
でも、そうやって目の前で起こることだけに対処している1年間の日記を読んでみると、なんだかやけに気分が清々しかったですよ。
読んでて気持ちよかった。
ただ目の前で起こることにちゃんと対処する。
それこそ最低限で、最大限の人生の生き方であると。
「日記本3」、本日予約開始!であります。
同じく本日より、鯨森惣七の描く絵本「ぺ・RISUBOUの旅・ダララララー」もローソン・ロッピーにて予約開始となります。ほぼ受注生産となる90ページ超の珍しい絵本。こちらも、何か心に残すようなものであると思います。
よし、では本日解散。
また明日だ諸君。
(20:09 藤村)

藤村

2月25日木曜日。藤村です。
みなさまにご報告があります。
このたび私と嬉野は、4月1日付けでコンテンツ事業室という部署に異動することとなりました。
基本的にこれまでと業務は変わらない、とのことではありますが、より放送外収入(DVDの制作など)に特化した部署である、と聞いております。
また、「水曜どうでしょう」並びに「ドラマ」のプロデューサーをつとめていたお馴染みキャップこと福屋は、営業部へ異動となります。
そして我々が在籍していた制作部は、朝番組や夕方のワイド番組を作っている情報部と統合され、情報制作部となります。
制作部にいた部員のうち半数が情報制作部にスライドして「ハナタレナックス」を継続して制作、あとの半数は我々のように他の部署へ異動ということになります。
90年代初めの「モザイクな夜」から始まって、「水曜どうでしょう」「ドラバラ」「いばらのもり」「ハナタレナックス」「素晴らしい世界」などの番組制作を行ってきたHTB制作部ですが、4月をもって、なくなることになりました。
ローカル局では珍しいバラエティー番組の制作、年に1本のスペシャルドラマの制作、さらには「夢チカレコード」というレコードレーベルまで立ち上げた、「自主独立の気概」にあふれた部署でした。
HTB制作部の名称は消えますが、情報制作部に異動する面々には、その伝統を引き継いでもらえたら、と思います。
繰り返しになりますが、私と嬉野は基本的にこれまでと変わらない業務内容と聞いております。どうでしょうがなくなるとか、そういうことではありませんので、ご心配なく。
また、嬉野先生の調子も大丈夫ですので、ご心配なく。
ただ、あまりにも急な異動であったので、落ち着くまで日記の更新はしばらく滞るかもしれません。
申し訳ありません。
以上、報告でした。
(18:07 藤村)

藤村

平成22年2月22日月曜日。藤村でございます。
お知らせが3つ。まずはうれしい知らせ。
ドラマ「ミエルヒ」が1月のギャラクシー月間賞を受賞いたしました。
受賞したのは「秘密のケンミンSHOW」の年始スペシャル、フジテレビのドラマ「神戸新聞の7日間」、NHKのETV特集「シリーズ日本と朝鮮半島」、そしてHTBの「ミエルヒ」の4本。
1月30日の関東圏での放送が賞の対象となったということですから、午前3時からの放送でよくぞと、いうところであります。
今週土曜日27日午後4時からは、ABA青森朝日放送で放送です。青森のみなさまお待たせいたしました。是非ともご覧ください。
お知らせの2つめ。弊社アナウンサー部の面々が徒然なるままにしゃべりたおすという音声配信サービス「HTBポッドキャスト」。小野優子、佐藤麻美アナウンサーによる「遙かなる?四十路への道」というコーナーにわたくし呼ばれましてトークをしております。
「三十路を超えた女子アナは会社にいづらくなる・・・」などと本音を隠さず話す弊社女子アナ2名と、四十を超えたおっさんディレクター。通常の倍以上、50分あまりの音声配信を行っております。まぁほとんどおっさんがしゃべっておりますが、職場で悩む女子諸君は是非。
3つめ。「日記本3」の発売が決定いたしました。5月12日(水)。3月1日からローソン・ロッピー端末並びに道内HTBグッズ販売店で予約開始であります。
ロッピー端末の予約番号商品コードは027320(語呂募集)。
とりあえず日記本と鯨森さんの絵本がひと段落して一息ついた嬉野先生にはゆっくり休養していただいております。
まぁ、「しんどいしんどい」「通常より脈が速い」などとここ最近の症状を隠すことなくおおっぴらに連呼し、しかしおかげで「女房がいろんなことを多目にみてくれる」「藤やんが席を譲ってくれた」等の、いくつかの恩恵を列記し、最終的に「弱った嬉野さんに寛容でありましょう」と世間一般、不特定多数に対して呼びかけて、なんなら見舞い品なども暗に所望しようかという貪欲さですから、さほど心配することではございません。
みなさんはこれまで通り各自の持ち場で通常営業してください。
じゃ、また明日。
(18:19 藤村)

藤村

2月17日水曜日。藤村でございます。
本日から「HTBきせかえ500」のコーナーに、「アーティスト応援企画」の鯨森惣七さんの携帯きせかえツールが登場いたしました。
還暦のじじいが1年がかりで描き上げた絵本の世界を、もしよろしければあなたの携帯に。ダウンロード525円でじじいの絵を買ってくださればと。
さて。
もうずいぶん経っちゃったんだけど、去年のクリスマスのことを書こう。
クリスマスイブの夜、子供たちが寝静まったころにサンタクロースがやってきてプレゼントを置いていく。
さすがに高校生と中学生になった長女と次女は、そんなことを信じているわけではないが、でも、いつの年から信じなくなったのか、それはよくわからない。まぁたぶん小学校の高学年ぐらいだったろうとは思うけれど、そのことについては何も言わず、相変わらずクリスマスイブの夜を楽しみに待っている。
一番下の坊主は今、小学5年生。こいつは低学年ですでに、
「サンタはお父さんなんでしょ」
と、禁断の言葉を吐き捨てて、家族全員からヤキを入れられたことがある。それがあってか、以来その言葉は口にしなくなり、おととし、4年生となって迎えたクリスマスの朝には、プレゼントのバスケットシューズに書かれた「中国製」の文字に驚愕し、「サンタどうしたぁーッ!」「なんで中国なんだぁーッ!」と、心の底から雄叫びを上げた。
サンタといえばヨーロッパあたりから来るもんだろう、なんで中国なんだと、彼は当惑し、思いがけず声を荒げてしまったのだ。
その声を寝床で聞きながら、「よしよし」と、「まだ信じてたんだな」と、少し安心したものである。
で、去年の暮れ。5年生となって迎えたクリスマスのこと。
早朝、バタバタと居間に降りていく坊主の足音で目が覚めた。
しばらくすると、「あるよ!あるよ!早く早く!」と、お姉ちゃんたちを起こす坊主のうわずった声が聞こえてきた。その声につられてお姉ちゃんたちも居間に集まってくる。
「ふふふ、よしよし」と、「子供らしいじゃないか」と、3人の声を聞きながらもう一度眠りについた。
目が覚めると子供たちはもう学校に行っていなかった。
居間には、包みを開けたプレゼントが3つ並んでいた。
マフラーや手袋、帽子、カラフルなお菓子・・・。
しかしカミさんはなぜか、少し仏頂面だった。
聞けばあのクソ坊主は、ひとしきりうれしそうな顔でプレゼントを眺めまわし、「いいねぇいいねぇ」と満足そうな顔を見せたあと、そっとカミさんのそばに寄って来て、
「あのさぁ」
と、声をひそめて言ったそうだ。
「あのさぁ、値札は取っとかないと」
クリスマスイブの夜、子供たちが寝静まったころにサンタクロースがやってきてプレゼントを置いていく。
そんな魔法のような、信じられない話を親は子供にする。
「サンタさんはエントツから入ってくるんでしょ?」
「そうだよ」
「サンタさんは大きいんでしょ?」
「大きいよ」
「このエントツの穴に入れるの?」
「入れるよ」
「あ!魔法で小さくなるんだ」
「そうだよ」
でもいつか子供は、それが真実ではないことを知る。
知るけれども、それは言わない。
そんな魔法のような、他の人に言ったらバカにされるような話をする家族という囲みの中で、囲まれている安心感を、いつまでも持ち続けていたい、と願うからだと思う。
子供がいつまでサンタクロースを信じるかは、その子供がどれだけ愛されているかによる。
3人の子供たちがまだ小さかったころに、この日記にそんな言葉を書いた。
でも、たぶん3人の子供たちは去年、サンタクロースを卒業した。
一番上の姉ちゃんは今年、高校3年生。大学受験を迎える。
来年の春にはたぶん、この家からいなくなるだろう。
今年が、だから、5人で迎える最後のクリスマスになる。
今年のクリスマスイブも、これまでと変わらずサンタクロースをしてやろうと思う。
これが2009年のクリスマスの出来事。
よし、また明日。
(18:09 藤村)

藤村

2月15日月曜日。藤村でございます。
嬉野先生がすでに日記を上げていたようだけど、まぁいいや、もう書き始めちゃった。
そしてこれは「アーティスト応援企画」のブログに書いた方がいいのかもしれないけど、まぁいいや、もう書いちゃった。
絵を描いている人やら、皿を焼いている人やら、そういう具体的にモノ作りをしている人たちに、テレビ局に勤めている我々ならば何かできるんじゃないだろうか、という気持ちで始めた「アーティスト応援企画」。
最初に応援しようと決めたのは鯨森惣七さん。
彼が絵本を描く。それを我々が応援する。
そして、まもなくその絵本が完成する。
それを前に先日、くじらさんが今の心境を文章にして我々に配った。
その文章を少し抜粋してみる。
「物を創りだす」
「やるからにはイイモノを、内容のあるものを、意気を感じてもらえるものを」 
「一人でも多くに見てもらいたい、ふれてもらいたい」
「一番はじめの企画としてセイコウさせたい」
「そうすることで企画立案者が、その関係者が、次があることを知るであろう、すくわれるであろう」
「そんな思いではじめたら集中するしかない」
「カラダをはって、あるだけのパワーを使う」「60才のしみこんできたものを表現する」
「だから、他の仕事は手につかないし、できない」「この1年間、他をふりむくことなく、全力をつくしていた、貯金をくずしてやってきた」
「なにか新しいものを作りだすって、なにかをギセイにしないと作れないもの、手はぬけない」
「手にした者に、意気を伝えるものにする」
「物を創るって、そんなもん」
これを読み、くじらさんはこの1年、我々の思いが及ばぬほどの全力で、この企画にのめり込んでいたのだ、ということに、ドキッとした。
その全力ぶりに対し、我々の言う「応援」という言葉の、なんと陳腐なことか、とも思った。
我々のしていることと言ったら、応援企画のサイトを立ち上げ、ブログを書く、ということ。
それを読んでくれる人のほとんどは、この「どうでしょう」の入口から入って来てくれた人たちだろう。
間口が狭い。
せっかく1年がかりで作った絵本の流通にしたって、一斉に全国の書店に並ぶわけではない。今のところは、予約を取っての受注生産と、いくつかの書店の店頭に並べてもらう、ということだけだ。
間口が狭い。
それじゃぁ、「一人でも多くに見てもらいたい、ふれてもらいたい」というくじらさんの願いは叶えられない。
これじゃぁいけない。
もっとうまいPRの方法はないのか、もっと広く流通させる手立てはないのか、もっと、もっと・・・。
間口を広げることへの要望、願望は尽きない。
でも、やらなければ・・・。
一方。
それとはまったく違うところで嬉野先生は、思い悩んでいた。
「どうやったら、くじらさんの描く絵の魅力をわかってもらえるか」
それをずっと考えていた。
間口が広いとか狭いとか、それはまぁともかく、今こうしてこの企画に関心を寄せてくれている人たちに対し、「鯨森惣七の絵の魅力そのものをどう伝えたらいいのか」、ということにのみ、頭を悩ませていた。
「それにはまず絵を見てもらうことだ」と、くじらさんの絵を飾っている店に行き、写真を撮り、自分なり言葉でその魅力を文章に起こした。
嬉野先生は、流通とかなんとか、そういう自分の力の及ばないことには見事なほどに口を出さない、手出しをしない。
出来ないことは出来ない、わからないことはわからない、と、堂々と言ってしまう。
だから誤解されることも多い。
「そういうこともさぁーちゃんとやろうよー」と。
でも、出来ないことを「ちゃんとやろうよー」というノリだけでやらされるのは非常に困る。だって、結果が目に見えているから。
それよりも、自分の考えが及ぶこと、出来ることであれば、体を壊すまで思い悩み、作戦を練り、行動に移すことはできる。
だからまぁ、嬉野先生は、「間口を広げること」とは別次元で、自分の出来ることをやっている。
でも、考えてみれば、くじらさんの「一人でも多くに見てもらいたい、ふれてもらいたい」という願いは、単に「間口を広げる」という物量的なことだけではなく、すでに「ここにいる人たちの中で」、その中で「一人でも多く」という考え方もできる。
嬉野先生のやっている努力は、そういう意味で、くじらさんの「一人でも多く」という願いには、ちゃんと応えているのだと思う。
まぁ本来ならば、流通やPRといった物量的に間口を広げる努力と、その作品の魅力を伝える質的な努力と、両方バランス良くできればいいんだろうけど、現状は、というかたぶんこれからも、我々は作品の魅力そのものを伝える努力の方に重きを置くだろう。だって、そもそも両方できるような規模の組織じゃない。どっちが出来るかをちゃんと見極めないと戦(いくさ)には勝てない。
しかしまぁ、そんな中でもやれることはやっていこう。
まずはあさって17日昼ごろから、「鯨森惣七のきせかえツール」の配信を始めます。
携帯という「額縁」の中に、様々な「鯨森惣七の絵を飾ってみる」というイメージで、彼の絵を買ってみてはいかがでしょうか。525円です。
「どうでしょう」をすでにダウンロードしてる人も、「きせかえ」なんだから、たまに「きせかえ」してもいいんじゃないでしょうか。
そして、パソコン版の応援企画サイトでは、壁紙のダウンロードサービスを始めました。
まずは手っ取り早く、鯨森惣七の絵をパソコンという額縁に飾ってみる、ということですね。まだ一枚ですが、私が「ぜひ壁紙にしてくれ」と頼んだ絵も、そのうちリストに加わると思います。
壁紙なんかは飽きたら、すぐ取り替えてもらってかまいません。
こちらは無料です。
ということで、90ページを超える鯨森惣七の絵本が発売されるまで、とりあえず、彼の絵を手元に置いてみてください。
あの絵、いいんじゃないかと、思いますよ。
嬉野先生が応援企画のブログにこんなことを書いてましたね。
くじらさんが描く絵のキャラクターはどうも目つきが悪い。
だから、放っておいても勝手に生きていくみたいな強さがある。
そこが安心する。
さすがな評論ですね。いい見方です。
【嬉野先生の本日の日記】
2010年2月15日(月)
奥さんどうも、嬉野です。
どうもね、体調が不良ですよ。
元気じゃないわけじゃないんですが、
元気なわけじゃないんです。
よくわからんですが、疲れやすいのです。
動くと、はぁはぁ言っちゃうわけで。
しかしながら、こうして日記を書くくらいの元気はある。
とはいうものの、濃い話は書けないわけで。
考えるのが途中で面倒くさくなっちゃう。
根気というものが行方不明になったわけで。
ですからまぁ、
食っちゃ寝、食っちゃ寝、する分にはね、
まぁさして影響は無い。
さぁということでね、
本日も日本全国でなんとか生きているみなさんに、
きっと好い事ありますように。
私も早いとこ元気になりますように。
ということでね、
本日はこれまで。
解散。
(18:17 藤村)

藤村

2月5日(金)。藤村でございます。
つい忘れておりましたが、前回のDVD第12弾「北極圏突入アラスカ他」の「シークレット映像の出し方」をウラにアップしておきました。遅くなってすいません。
もうひとつ。
台湾にお住まいの皆様!いよいよやってまいりました!
アメリカ合衆国ロサンゼルスに続き、どうでしょうさん海外進出でございます。
台湾の日本語ケーブルチャンネル「ゴールドサン國興衛視」で、毎週日曜日夜8時〜9時の1時間、毎週2本ずつ「どうでしょうクラシック」放送であります。
番組の中国語タイトルは、「玩轉世界瘋很大」。直訳すると、”世界を舞台に徹底的にハチャメチャに遊び転げる”という意味だそうです。
ハチャメチャに遊び転げる・・・このタイトルから想像するに、年のころなら22、3という男女4人ぐらいのアイドル系のタレントさんがですね、世界各地でバンジーとか、スカイダイビングとか、そういったものをワーキャー言いながらチャレンジしていって、「今回の旅もチョー楽しかったですっ!」かなんか言いながらまた来週みたいな、そんな番組を想像してしまいますよね。
でもね、台湾の方、違うんですよ。
ぐだぐだのローカルタレントとテレビ局員のおっさん4人組がですね、世界各地でレンタカーとか、バスとか電車とかに揺られて、宿の一室で一杯ひっかけた赤ら顔でぐだぐだにくだをまいて、しまいには「二度と来るかこんなとこ!」と、悪態だけを吐き捨てて帰るような、そんな番組なんですよ。
決してね、「ハチャメチャに」「遊び転げる」なんていう清々しいハツラツとしたシーンは、終生見ることはできないんですよ。
でもね、台湾の方、これが日本では結構な人気なんです。
特に悪態ばかりをつくタレントのニョーイズミニョーなんてのは、映画やドラマに出てけっこうなスターダムにのしあがっているんです。
不思議な国ですねぇ日本は。
でもね、台湾の方。旅っていうのは、きれいな景色や名所旧跡、珍しいもの見たり、美味しいもの食べたり、そういうことだけではないと思うんです。
思い出に残るのは、そういうものばかりではない。
むしろ、一緒に旅に出た人とケンカをしたり、バカ話で盛り上がったり、そういう些細なことが意外と思い出として終生残るもんなんです。
何を見ようと、どこへ行こうと、いや、どこへも行かなくても、そういう些細なことが人の人生に終生残る。
つまり、そういう些細なことが案外、人生を豊かにしていくもんなんです。
旅に出て、「チョー楽しかった」「チョーおいしかった」だけでは、決して人生を豊かに彩りはしない。その人の人生に何かを残してはくれない。
些細なことをどれだけ拾い集められるか、が実は大事なことなんです。
「水曜どうでしょう(玩轉世界瘋很大)」という番組はですね、そこらへんのところを深く追求した、まことにもって知的な、思慮深い番組なんですよ。どうかお子様にも安心して見せてあげていただきたいと、そう思うわけであります。
ただその、あまりにも熱心に見すぎると、なぜか出演者たちの独特の口語口調がうつってしまうという、妙な現象がままあるようです。
この番組の出演者たちは、日本人の一般的な発音言語形態とは若干異なる、ということをご理解の上、ご覧いただければと思います。
では、台湾の皆様!今後とも末永いお付き合いのほどよろしくお願いいたします。
藤村でした。ではまた。再見!
【お知らせ】
今から11年前、DVD第13弾で登場の東北ツアーにご参加いただいたみなさま!皆様のお顔にはいっさいぼかしなどの処理はいれておりませんのでご承知おきくださいね!
映ってた人の顔は、全員バッキンバッキで見れますからねぇー!
(17:09 藤村)

藤村

1月29日(金)。本日も藤村でございます。
まずは関東一円の皆様にお知らせ、というか確認!
いよいよ!明日土曜日深夜、というか日曜日早朝というか、午前3時10分からテレビ朝日にてドラマ「ミエルヒ」放送であります。
新潟の皆様も明日土曜日午後3時から!ドラマ「ミエルヒ」放送。
なにとぞご覧いただき、感想などお寄せいただければと思っております。
さて、岩手の続き。
大船渡の漁港で極上の朝メシをいただいたあと、我々は大学へと向かいました。
大船渡に大学があるんですね。北里大学海洋生命科学部。窓の向こうには世界三大漁場の三陸沖が遠く見渡せる小高い丘の上に、そのキャンパスはありました。
我々そこで先生から講義を受けました。海洋資源の観点から今の日本の現状を見る。そんな講義でした。
その中から、私が感じたことも含めながら、いくつかお話しましょう。
まずスライドに映し出されたのが、サケの大群が川を埋め尽くす写真。先生がカナダで撮ったものだそうです。人里離れた川の上流、婚姻色で真っ赤になったサケの大群を見るために、海外を含め、多くの人がやってきます。もう立派な観光として成り立っている。是非見てみたいものです。
でも実は、岩手県にだって多くのサケがやってくる。でもカナダのような壮観な風景を見たことがない。なぜなら、ほとんどすべてのサケは下流部で捕獲され、人工的に受精、産卵させられているから。確かに人の手を加えることでサケの個体数は増え、守られてきた。でもそれは、サケという生物を「食料」という観点でのみ利用しようという考え方からきたもの。しかしその何割かでも上流へと上らせ、自然産卵させることにより、ひとつは、カナダのように「観光資源」として利用することができる。もうひとつは、サケが上流まで行って死ぬことにより、それ自体が上流部の栄養源となる、つまりサケを「自然のサイクルのひとつ」として利用することもできる。
なるほどと思いました。サケが川を埋め尽くす風景は、みんな絶対に見てみたいはず。北海道の一部の川では許可されているサケ釣りも、もっと広く観光資源として活用できるはず。でも日本ではなかなかできません。それは、昔はサケはとても貴重な食料で、それを守るために細かな規制が作られたから。そして今だにその規制を変えず、サケを「食料」としてしか見ていないからです。
「地産地消」という言葉にあまりに固執しすぎるのはよくないのではないでしょうか。例えば、この時期のサバは九州の方が美味しいし、たくさん獲れる、となれば九州のサバを食べた方が、日本全体の水産業を考えればいいことではないか。そのとおりだと思います。流行の言葉に踊らされず、全体のバランスをよく考えることが重要です。
スーパーの鮮魚売り場には、海外産のものが多く並んでいます。安いので、ついつい手が伸びてしまう。これからは値札のほかに、この魚が運ばれるまでに一体どれだけのCO2が排出されたか、どれほどの石油を消費したのか、を記入したらどうでしょうかと。いいですね。値段だけを書いて「安さ」を強調して売るのは、あまりにも短絡的です。消費者をバカにしてる。値段のほかに、もうひとつの判断基準を消費者に与える。すると多くの消費者は、値段よりも大事な価値をそこに見つけ出すはずです。主婦だって社会の一員だという自負は強く持っているのです。
先生はこんなことも言っていました。なるべく仕事はサボりたいですと。まったくもって同感です。
今まではわき目もふらずに働くことで社会は発展をとげてきた。発展すればみんなバラ色になる、と信じて。でも今、みんなわかってしまった。発展の先にバラ色は、どうやらないぞと。それどころか、社会はおかしな方向へ行っているぞと。わき目もふらず、何も考えずに働いてきたおかげで、何か大事なことを忘れていたぞと。おいおい、と。それで、ハタと立ち止まるわけです。このまま何も考えずに働いていていいのかと。それが言葉を変えれば、仕事をサボる、という意味だと思います。仕事もしないで、社会に対して何も活動しないで、ただひとりで考えているだけなら、残念ながら社会には何も影響を与えません。仕事をしながら、サボる。つまり、考える。
思えば、岩手で出会った人々は、みんなそうでした。ただわき目もふらずに仕事をしているのでなく、何かを考えていた。
今回、我々をこんな旅に連れて行ってくれたのは、盛岡博報堂という広告代理店の人です。盛岡でのイベントを仕切っていた人たち。我々はそのイベントに呼ばれたわけです。それは「仕事」。でも、その「仕事」以外に、彼らは一緒に寝泊りをしながら、岩手の人々と話す機会を作ってくれた。北海道のテレビ局の人間が岩手の広告代理店の案内でいろんな人に出会ったからといって、それが「仕事(ビジネス)」に直結するとは思えない。つまり我々は、いわゆる「仕事」をサボったわけです。そんなことより、広告代理店、テレビ局の人間として、お互いこれからの社会の中で、どんなことをやらなければいけないのか、その一番大事な部分を考える機会を作ってくれた。「ビジネスに直結する」というわき目もふらない仕事ぶりをやめて、一緒に「仕事」をサボることで、一緒に考えることができた。
心から感謝しています。
というわけで、岩手の旅は終わりました。
いや、最後に花巻の鉛温泉「藤三旅館」という古い大きな旅館で、いい湯に浸かりました。
仕事サボって温泉。なによりも最高です。
ではまた来週!
【きのうの日記】
1月28日(木)、藤村でございます。
岩手のお話の続き。
岩手・三陸といえば美味い海産物。なぜ海産物が有名か。
「試験に出る」大泉校長の語呂を思い出してほしい。
車 だん吉 日本に帰る(黒潮 暖流 日本海流)
親は 寒いぞ 千昌夫(親潮 寒流 千島海流)
日本の太平洋岸には、上記ふたつの海流が流れております。南からは暖かい黒潮(日本海流)、北からは冷たい親潮(千島海流)、それぞれの海流に乗っていろんな魚が日本沿岸へとやってくる。だから日本は漁業が盛んなんです。中でも、南から来る黒潮と北から来る親潮がぶつかる地点、それが岩手の三陸沖。つまり三陸沖には黒潮の魚も親潮の魚も集まってくるわけで、魚の種類が豊富、それゆえ世界三大漁場とも呼ばれております。
もうひとつ。三陸といえばリアス式海岸。複雑に入り組んだ地形が深い入り江を作っている。入り江は外海と遮断されて波もおだやか。だからそこに良い港ができる。その上、静かで深い入り江はカキやホタテ、海苔なんかの養殖がやりやすい。
沖へ出れば世界三大漁場、リアス式海岸では養殖と、そりゃあ海産物の宝庫なわけです。
さて旅の続き。
陸前高田で創業200年の醤油屋さん「八木澤商店」を出たあと我々は、大船渡の小さな漁港へと行きました。ここでホタテ漁師さんの船に乗り、ホタテとカキの養殖の様子を見せてもらいました。
カキもホタテも、ロープ状のものに稚貝を付けて、それを海に沈めておく。ホタテは数ヶ月、カキは1年から2年で出荷できるぐらいの大きさに育つ。養殖とは簡単に言えばそれだけのこと。でも、米や野菜と同じで、種をまけば勝手に育つわけじゃない。出来の悪いものは間引いたり、雑草(海草)をこまめに取ったり。収穫したあとも、殻をきれいに洗い、身を取り出してようやく出荷となる。
カキの漁師さんに聞いた。ひとつのロープには20個ぐらい稚貝を付けるが、その貝と貝との間隔、出来の悪いものを間引くときのタイミング、そんなところに細かいコダワリがあると。そして最終的に良いものに育つのは、20個のうちの7個ぐらいだと。
でもウチのカキはそんなに大きくならない。川があって、そこから生活排水なんかが流れ込む濁った海のほうが栄養が多くてカキは大きくなる。でもここは海がきれい。なるほど見れば、驚くほど海が透きとおっている。つまり、ここは栄養が少ない。だから大きく育たない。でも、このきれいな海で育ったカキの方がおれはいいと思う。漁師さんは胸を張って言った。
米や野菜のコダワリなんかはよく耳にするが、養殖にもそれぞれのコダワリがある。
ホタテの漁師さんには、こんな話を聞いた。北海道のホタテは広い面積にざぁーっと稚貝をまき、大型の漁船で一気にざーっと収穫する。だから安い。かなわない。こっちは、こんな入り江で、ひとつひとつ稚貝を育てて・・・手間がかかるよ。でも、安くしか売れない・・・ギリギリだ。
北海道は漁業も農業も大型化することで発展してきた。三陸でホタテを作っている漁師にとってそれは、外国産と同じ驚異なのだ。
でも、カキの漁師さんは、同級生であるホタテの漁師さんのことをこう言っていた。「あいつにもコダワリがあって、いろんなことを考えながらホタテやってるよ」。
船をおりて、漁港の番屋に寄らせてもらった。木造で、中にダルマストーブがあって、ばあさんがその上でカキを焼き、小さな魚を焼き、どんこ汁を作ってふるまってくれた。ばあさんはこの小屋で、息子(カキの漁師さん)が取って来るカキの殻むきを一日中やっているという。我々も殻むきを教えてもらった。かなりな力仕事だ。うまくできない。でもばあさんはニコニコしながら教えてくれた。こんな汚いところによく来てくれたねぇ、と何度も言っていた。
漁港を出て、近くにある「三陸とれたて市場」というところに行った。
市場といっても、そこに魚が並んでいるわけではない。インターネットで発注を受けて、漁師さんから直接仕入れた魚をそこから全国に発送しているのだ。やっているのは、静岡出身の若い3人の兄ちゃんたち。ひとりがこの三陸の海の素晴らしさに惚れこんで、ここに住みつき、ふたりを静岡から呼んで商売を始めたという。中のひとりがどうでしょうの大ファンで目を丸くしていた。「なっなんで!こんなところに藤村さんと嬉野さんが!」。
そのあと近くの山の上にある温泉に行った。そこに先ほどのホタテ漁師さんの三男坊がやってきた。19歳だというが風呂が好きでしょっちゅうここに来るらしい。明日は夜中の2時半に出漁だという。ほとんど寝る時間ないじゃんか!と思いながらも、湯船につかってずいぶんいろんな話をしていった。
19歳の三男坊にしても、その親である漁師さんたちにしても、そして醤油屋の専務も、とれたて市場を開いた兄ちゃんも、とにかく話を聞けば、いろんな話をしてくれた。つまり彼らには、それだけ話すことがあるということだ。普段は黙々と作業をしているけれども、それは相当、考えながらやっているということだ。考えながらやっているから、次々に話したいことが出てくる。そして話を聞くことで、我々もいろんなことを考える。
その日の夕食は大船渡で「イタリアン」だった。三陸まで来てイタリアン?と思うが、そこのシェフがおもしろいと。
店の名は「ポルコ・ロッソ」。地場の材料でうまいイタリアンを出す店だ。デザートに出たのが「醤油のアイス」。地場の牛乳に地場の有精卵のたまご、そして、陸前高田の八木澤商店の醤油、それだけで作る。それがバカうま。本当の醤油には数百の味の成分がある、と言っていたが、まさにそのとおり。「何味」というくくりができない奥行きのある味だ。
シェフは自分の故郷・大船渡に女性をエスコートできるようなしゃれた店を作りたかったという。動機が実に不純だ。しかし、動機は不純で結構。動機はどうあれ10年前、彼はこんな田舎に、しゃれたイタリア料理屋を作ることに着手したのだ。当然苦労は多い。でもそれは、「客が来る」「来ない」という市場原理的な問題だけだ。単純に「美味い料理を作る」というだけなら、ここには素晴らしい素材がある。実は料理屋にとって素晴らしい環境だったのだ。客を呼ぶには、他に負けない本当に美味いものを提供すればいい。今では東京からもお客さんが来るという。すごいじゃないか!
店が終わったあと、シェフとふたりで大船渡のバーに出かけ、2時まで飲んだ。
翌朝、再び漁港の番屋に寄って、朝メシをいただいた。焼き魚に味噌汁、そしてご飯と卵。八木澤商店の醤油をご飯に垂らし、とれたての有精卵を割り入れる。極上のたまごご飯に、何度も何度もうなずいてしまった。
まだちょっと続きがあるが、本日はここまで。
また明日!
【きのうの日記】
1月27日(水)。藤村でございます。
嬉野先生と岩手に行ってまいりました。
日曜日の昼、盛岡で開かれたイベントで1時間ばかり話をし、その後、盛岡の街を案内してもらいました。案内人は盛岡の「文化地層研究会」の真山さん。「文化地層研究会」というカタイ名称から、地質学的な発掘かなんかやってる団体かと思われますが、まったく違います。文化は今そこに見えているものだけではなく、地層のように積み重なったものである、だから、それを掘り起こしていくことで、その街の本当の姿が見えてくる。たとえばある日。真山さんはいつものように犬の散歩をしておりました。ある学校の前で犬がウンチをしたので、「やれやれ」と腰をかがめると、ふと目の前に小さな記念碑があることに気付いた。見れば「ヘレンケラーお手植えの木」と書いてある。「なんでこんなとこでヘレンケラー?」と思って調べてみると、その昔、盛岡にヘレンケラーがやってきて、この学校に植樹をしたということがわかった。みんなに話しても誰も知らなかった。真山さんは、盛岡の小さな歴史文化をひとつ、発掘したわけだ。まぁ、そんな小さな盛岡文化の発掘現場を、ダジャレ好きの真山さんにおもしろおかしく案内され、最後は「オヤジいい加減にしろ!」と半ばあきれながらもたくさんの話を聞いた。
その夜は、盛岡の「鉈屋町」という地区の古い町屋に文化地層研究会の人たちが中心に集まって酒盛りをしてくれ、そのままその町屋に泊めさせてもらった。
鉈屋町は、盛岡の中でも城下町の風情が少なからず残っている稀少な地区で、キレイな水が湧く共同井戸なんかも残っている。でもそんな鉈屋町の古い町並をつぶして4車線の道路を作る計画が立ち上がったらしい。しかし、市民の反対運動に昨今の財政危機が重なって中止になったという。財政危機も悪くない。金がなければまともになる、ということだろう。
一方で、鉈屋町にある古い消防番屋を取り壊し、新たに建て直す計画が持ち上がったときの反対運動では、その消防番屋を昔から維持してきた人にこう言われたという。
「ここは消防の拠点だ。ここが古くて燃えやすい建物のままでいるわけにはいかない」。
消防番屋は再建されることになった。でも、新しい建物の上には、昔の番屋の雰囲気を残す鐘楼が作られることになった。
古いものを残したい、という一方で、古いままではどうしようもない、ということもある。
こんなふうに、いわゆる観光地を案内されるのではなく、いろんな目線で盛岡の街を案内されて、盛岡がとても魅力的な街に見えた。その夜は話が尽きることなく、岩手日報の若いやつらと岩手大学の学生と夜中3時まで飲んだ。
翌日は盛岡を離れ、海岸沿いの三陸方面に連れて行ってもらった。最初に訪れたのは、陸前高田にある八木澤商店という古い醤油屋だ。創業200年。
蔵を見せてもらった。
200年前の樽で、岩手産の大豆と小麦を使い、昔ながらの手間のかかる製法で醤油を作っている。
醤油ってのは本来、いろんな果物や花に含まれる数百の香りの成分があるのだという。そんなことまったく知らなかったし、そんなこと感じたこともなかった。そりゃそうだろう。普段使っている安売りの醤油にそんなチカラはない。
八木澤商店の「生揚げ醤油」は、作るのに丸2年かける。薄暗い蔵の中に昔から棲みついている菌が、じっくり時間をかけていろんな香りを作り上げていくんだろう。
八木澤商店の専務が話をしてくれた。安いというだけの理由で輸入に頼ってばかりの日本はやがて食料に困窮する。日本で食料を作り出している人を守らなければならない。だから、外国産ではなく地元の原材料を使うのだ。昨今聞きなれた「地産地消」という言葉の、本当の意味がそこにある。
さらに専務は言う。
醤油を搾り出す過程で小麦大豆のカスが出る。カスといったって、そこにも様々な菌類が含まれている。昔はそれを「金肥」といって肥料として売っていたそうだ。それを今はタダで農家に配り(ほとんどの工場では産業廃棄物として処理されているらしい)、その上、出来上がった米を普通よりも高く買い取っているという。そのぐらいやらないと今の農家はつぶれてしまうのだ。
さらに自分たちで田畑も作っている。金肥をあげた農家からもお礼として大量の野菜が届く。それらを従業員たちの「まかない飯」にあてる。
醤油屋が、ひとつの大きな食料自給のサイクルを作り出しているのだ。
すごいと思った。専務の語る言葉に何度もぐっときた。そんな専務はこの醤油屋の跡継ぎ、我々よりも全然年下の男である。
最後に八木澤商店の「まかない飯」を食わせてもらった。古い大きなテーブルを囲んで、おばちゃんが作るまかない飯。自分のところで作った米と漬物、シャケの切り身に八木澤商店の醤油をかけて食べる。すこぶるうまかった。
このあとも岩手三陸の旅は続きますが、今夜は「三陸のカキ」を食べるので今日はここまで!
また明日だ。
【お知らせ】
今から11年前、DVD第13弾で登場の東北ツアーにご参加いただいたみなさま!皆様のお顔にはいっさいぼかしなどの処理はいれておりませんのでご承知おきくださいね!
映ってた人の顔は、全員バッキンバッキで見れますからねぇー!
(18:04 藤村)

藤村

1月28日(木)、藤村でございます。
岩手のお話の続き。
岩手・三陸といえば美味い海産物。なぜ海産物が有名か。
「試験に出る」大泉校長の語呂を思い出してほしい。
車 だん吉 日本に帰る(黒潮 暖流 日本海流)
親は 寒いぞ 千昌夫(親潮 寒流 千島海流)
日本の太平洋岸には、上記ふたつの海流が流れております。南からは暖かい黒潮(日本海流)、北からは冷たい親潮(千島海流)、それぞれの海流に乗っていろんな魚が日本沿岸へとやってくる。だから日本は漁業が盛んなんです。中でも、南から来る黒潮と北から来る親潮がぶつかる地点、それが岩手の三陸沖。つまり三陸沖には黒潮の魚も親潮の魚も集まってくるわけで、魚の種類が豊富、それゆえ世界三大漁場とも呼ばれております。
もうひとつ。三陸といえばリアス式海岸。複雑に入り組んだ地形が深い入り江を作っている。入り江は外海と遮断されて波もおだやか。だからそこに良い港ができる。その上、静かで深い入り江はカキやホタテ、海苔なんかの養殖がやりやすい。
沖へ出れば世界三大漁場、リアス式海岸では養殖と、そりゃあ海産物の宝庫なわけです。
さて旅の続き。
陸前高田で創業200年の醤油屋さん「八木澤商店」を出たあと我々は、大船渡の小さな漁港へと行きました。ここでホタテ漁師さんの船に乗り、ホタテとカキの養殖の様子を見せてもらいました。
カキもホタテも、ロープ状のものに稚貝を付けて、それを海に沈めておく。ホタテは数ヶ月、カキは1年から2年で出荷できるぐらいの大きさに育つ。養殖とは簡単に言えばそれだけのこと。でも、米や野菜と同じで、種をまけば勝手に育つわけじゃない。出来の悪いものは間引いたり、雑草(海草)をこまめに取ったり。収穫したあとも、殻をきれいに洗い、身を取り出してようやく出荷となる。
カキの漁師さんに聞いた。ひとつのロープには20個ぐらい稚貝を付けるが、その貝と貝との間隔、出来の悪いものを間引くときのタイミング、そんなところに細かいコダワリがあると。そして最終的に良いものに育つのは、20個のうちの7個ぐらいだと。
でもウチのカキはそんなに大きくならない。川があって、そこから生活排水なんかが流れ込む濁った海のほうが栄養が多くてカキは大きくなる。でもここは海がきれい。なるほど見れば、驚くほど海が透きとおっている。つまり、ここは栄養が少ない。だから大きく育たない。でも、このきれいな海で育ったカキの方がおれはいいと思う。漁師さんは胸を張って言った。
米や野菜のコダワリなんかはよく耳にするが、養殖にもそれぞれのコダワリがある。
ホタテの漁師さんには、こんな話を聞いた。北海道のホタテは広い面積にざぁーっと稚貝をまき、大型の漁船で一気にざーっと収穫する。だから安い。かなわない。こっちは、こんな入り江で、ひとつひとつ稚貝を育てて・・・手間がかかるよ。でも、安くしか売れない・・・ギリギリだ。
北海道は漁業も農業も大型化することで発展してきた。三陸でホタテを作っている漁師にとってそれは、外国産と同じ驚異なのだ。
でも、カキの漁師さんは、同級生であるホタテの漁師さんのことをこう言っていた。「あいつにもコダワリがあって、いろんなことを考えながらホタテやってるよ」。
船をおりて、漁港の番屋に寄らせてもらった。木造で、中にダルマストーブがあって、ばあさんがその上でカキを焼き、小さな魚を焼き、どんこ汁を作ってふるまってくれた。ばあさんはこの小屋で、息子(カキの漁師さん)が取って来るカキの殻むきを一日中やっているという。我々も殻むきを教えてもらった。かなりな力仕事だ。うまくできない。でもばあさんはニコニコしながら教えてくれた。こんな汚いところによく来てくれたねぇ、と何度も言っていた。
漁港を出て、近くにある「三陸とれたて市場」というところに行った。
市場といっても、そこに魚が並んでいるわけではない。インターネットで発注を受けて、漁師さんから直接仕入れた魚をそこから全国に発送しているのだ。やっているのは、静岡出身の若い3人の兄ちゃんたち。ひとりがこの三陸の海の素晴らしさに惚れこんで、ここに住みつき、ふたりを静岡から呼んで商売を始めたという。中のひとりがどうでしょうの大ファンで目を丸くしていた。「なっなんで!こんなところに藤村さんと嬉野さんが!」。
そのあと近くの山の上にある温泉に行った。そこに先ほどのホタテ漁師さんの三男坊がやってきた。19歳だというが風呂が好きでしょっちゅうここに来るらしい。明日は夜中の2時半に出漁だという。ほとんど寝る時間ないじゃんか!と思いながらも、湯船につかってずいぶんいろんな話をしていった。
19歳の三男坊にしても、その親である漁師さんたちにしても、そして醤油屋の専務も、とれたて市場を開いた兄ちゃんも、とにかく話を聞けば、いろんな話をしてくれた。つまり彼らには、それだけ話すことがあるということだ。普段は黙々と作業をしているけれども、それは相当、考えながらやっているということだ。考えながらやっているから、次々に話したいことが出てくる。そして話を聞くことで、我々もいろんなことを考える。
その日の夕食は大船渡で「イタリアン」だった。三陸まで来てイタリアン?と思うが、そこのシェフがおもしろいと。
店の名は「ポルコ・ロッソ」。地場の材料でうまいイタリアンを出す店だ。デザートに出たのが「醤油のアイス」。地場の牛乳に地場の有精卵のたまご、そして、陸前高田の八木澤商店の醤油、それだけで作る。それがバカうま。本当の醤油には数百の味の成分がある、と言っていたが、まさにそのとおり。「何味」というくくりができない奥行きのある味だ。
シェフは自分の故郷・大船渡に女性をエスコートできるようなしゃれた店を作りたかったという。動機が実に不純だ。しかし、動機は不純で結構。動機はどうあれ10年前、彼はこんな田舎に、しゃれたイタリア料理屋を作ることに着手したのだ。当然苦労は多い。でもそれは、「客が来る」「来ない」という市場原理的な問題だけだ。単純に「美味い料理を作る」というだけなら、ここには素晴らしい素材がある。実は料理屋にとって素晴らしい環境だったのだ。客を呼ぶには、他に負けない本当に美味いものを提供すればいい。今では東京からもお客さんが来るという。すごいじゃないか!
店が終わったあと、シェフとふたりで大船渡のバーに出かけ、2時まで飲んだ。
翌朝、再び漁港の番屋に寄って、朝メシをいただいた。焼き魚に味噌汁、そしてご飯と卵。八木澤商店の醤油をご飯に垂らし、とれたての有精卵を割り入れる。極上のたまごご飯に、何度も何度もうなずいてしまった。
まだちょっと続きがあるが、本日はここまで。
また明日!
【きのうの日記】
1月27日(水)。藤村でございます。
嬉野先生と岩手に行ってまいりました。
日曜日の昼、盛岡で開かれたイベントで1時間ばかり話をし、その後、盛岡の街を案内してもらいました。案内人は盛岡の「文化地層研究会」の真山さん。「文化地層研究会」というカタイ名称から、地質学的な発掘かなんかやってる団体かと思われますが、まったく違います。文化は今そこに見えているものだけではなく、地層のように積み重なったものである、だから、それを掘り起こしていくことで、その街の本当の姿が見えてくる。たとえばある日。真山さんはいつものように犬の散歩をしておりました。ある学校の前で犬がウンチをしたので、「やれやれ」と腰をかがめると、ふと目の前に小さな記念碑があることに気付いた。見れば「ヘレンケラーお手植えの木」と書いてある。「なんでこんなとこでヘレンケラー?」と思って調べてみると、その昔、盛岡にヘレンケラーがやってきて、この学校に植樹をしたということがわかった。みんなに話しても誰も知らなかった。真山さんは、盛岡の小さな歴史文化をひとつ、発掘したわけだ。まぁ、そんな小さな盛岡文化の発掘現場を、ダジャレ好きの真山さんにおもしろおかしく案内され、最後は「オヤジいい加減にしろ!」と半ばあきれながらもたくさんの話を聞いた。
その夜は、盛岡の「鉈屋町」という地区の古い町屋に文化地層研究会の人たちが中心に集まって酒盛りをしてくれ、そのままその町屋に泊めさせてもらった。
鉈屋町は、盛岡の中でも城下町の風情が少なからず残っている稀少な地区で、キレイな水が湧く共同井戸なんかも残っている。でもそんな鉈屋町の古い町並をつぶして4車線の道路を作る計画が立ち上がったらしい。しかし、市民の反対運動に昨今の財政危機が重なって中止になったという。財政危機も悪くない。金がなければまともになる、ということだろう。
一方で、鉈屋町にある古い消防番屋を取り壊し、新たに建て直す計画が持ち上がったときの反対運動では、その消防番屋を昔から維持してきた人にこう言われたという。
「ここは消防の拠点だ。ここが古くて燃えやすい建物のままでいるわけにはいかない」。
消防番屋は再建されることになった。でも、新しい建物の上には、昔の番屋の雰囲気を残す鐘楼が作られることになった。
古いものを残したい、という一方で、古いままではどうしようもない、ということもある。
こんなふうに、いわゆる観光地を案内されるのではなく、いろんな目線で盛岡の街を案内されて、盛岡がとても魅力的な街に見えた。その夜は話が尽きることなく、岩手日報の若いやつらと岩手大学の学生と夜中3時まで飲んだ。
翌日は盛岡を離れ、海岸沿いの三陸方面に連れて行ってもらった。最初に訪れたのは、陸前高田にある八木澤商店という古い醤油屋だ。創業200年。
蔵を見せてもらった。
200年前の樽で、岩手産の大豆と小麦を使い、昔ながらの手間のかかる製法で醤油を作っている。
醤油ってのは本来、いろんな果物や花に含まれる数百の香りの成分があるのだという。そんなことまったく知らなかったし、そんなこと感じたこともなかった。そりゃそうだろう。普段使っている安売りの醤油にそんなチカラはない。
八木澤商店の「生揚げ醤油」は、作るのに丸2年かける。薄暗い蔵の中に昔から棲みついている菌が、じっくり時間をかけていろんな香りを作り上げていくんだろう。
八木澤商店の専務が話をしてくれた。安いというだけの理由で輸入に頼ってばかりの日本はやがて食料に困窮する。日本で食料を作り出している人を守らなければならない。だから、外国産ではなく地元の原材料を使うのだ。昨今聞きなれた「地産地消」という言葉の、本当の意味がそこにある。
さらに専務は言う。
醤油を搾り出す過程で小麦大豆のカスが出る。カスといったって、そこにも様々な菌類が含まれている。昔はそれを「金肥」といって肥料として売っていたそうだ。それを今はタダで農家に配り(ほとんどの工場では産業廃棄物として処理されているらしい)、その上、出来上がった米を普通よりも高く買い取っているという。そのぐらいやらないと今の農家はつぶれてしまうのだ。
さらに自分たちで田畑も作っている。金肥をあげた農家からもお礼として大量の野菜が届く。それらを従業員たちの「まかない飯」にあてる。
醤油屋が、ひとつの大きな食料自給のサイクルを作り出しているのだ。
すごいと思った。専務の語る言葉に何度もぐっときた。そんな専務はこの醤油屋の跡継ぎ、我々よりも全然年下の男である。
最後に八木澤商店の「まかない飯」を食わせてもらった。古い大きなテーブルを囲んで、おばちゃんが作るまかない飯。自分のところで作った米と漬物、シャケの切り身に八木澤商店の醤油をかけて食べる。すこぶるうまかった。
このあとも岩手三陸の旅は続きますが、今夜は「三陸のカキ」を食べるので今日はここまで!
また明日だ。
【お知らせ】
今から11年前、DVD第13弾で登場の東北ツアーにご参加いただいたみなさま!皆様のお顔にはいっさいぼかしなどの処理はいれておりませんのでご承知おきくださいね!
映ってた人の顔は、全員バッキンバッキで見れますからねぇー!
(19:56 藤村)

藤村

1月27日(水)。藤村でございます。
嬉野先生と岩手に行ってまいりました。
日曜日の昼、盛岡で開かれたイベントで1時間ばかり話をし、その後、盛岡の街を案内してもらいました。案内人は盛岡の「文化地層研究会」の真山さん。「文化地層研究会」というカタイ名称から、地質学的な発掘かなんかやってる団体かと思われますが、まったく違います。文化は今そこに見えているものだけではなく、地層のように積み重なったものである、だから、それを掘り起こしていくことで、その街の本当の姿が見えてくる。たとえばある日。真山さんはいつものように犬の散歩をしておりました。ある学校の前で犬がウンチをしたので、「やれやれ」と腰をかがめると、ふと目の前に小さな記念碑があることに気付いた。見れば「ヘレンケラーお手植えの木」と書いてある。「なんでこんなとこでヘレンケラー?」と思って調べてみると、その昔、盛岡にヘレンケラーがやってきて、この学校に植樹をしたということがわかった。みんなに話しても誰も知らなかった。真山さんは、盛岡の小さな歴史文化をひとつ、発掘したわけだ。まぁ、そんな小さな盛岡文化の発掘現場を、ダジャレ好きの真山さんにおもしろおかしく案内され、最後は「オヤジいい加減にしろ!」と半ばあきれながらもたくさんの話を聞いた。
その夜は、盛岡の「鉈屋町」という地区の古い町屋に文化地層研究会の人たちが中心に集まって酒盛りをしてくれ、そのままその町屋に泊めさせてもらった。
鉈屋町は、盛岡の中でも城下町の風情が少なからず残っている稀少な地区で、キレイな水が湧く共同井戸なんかも残っている。でもそんな鉈屋町の古い町並をつぶして4車線の道路を作る計画が立ち上がったらしい。しかし、市民の反対運動に昨今の財政危機が重なって中止になったという。財政危機も悪くない。金がなければまともになる、ということだろう。
一方で、鉈屋町にある古い消防番屋を取り壊し、新たに建て直す計画が持ち上がったときの反対運動では、その消防番屋を昔から維持してきた人にこう言われたという。
「ここは消防の拠点だ。ここが古くて燃えやすい建物のままでいるわけにはいかない」。
消防番屋は再建されることになった。でも、新しい建物の上には、昔の番屋の雰囲気を残す鐘楼が作られることになった。
古いものを残したい、という一方で、古いままではどうしようもない、ということもある。
こんなふうに、いわゆる観光地を案内されるのではなく、いろんな目線で盛岡の街を案内されて、盛岡がとても魅力的な街に見えた。その夜は話が尽きることなく、岩手日報の若いやつらと岩手大学の学生と夜中3時まで飲んだ。
翌日は盛岡を離れ、海岸沿いの三陸方面に連れて行ってもらった。最初に訪れたのは、陸前高田にある八木澤商店という古い醤油屋だ。創業200年。
蔵を見せてもらった。
200年前の樽で、岩手産の大豆と小麦を使い、昔ながらの手間のかかる製法で醤油を作っている。
醤油ってのは本来、いろんな果物や花に含まれる数百の香りの成分があるのだという。そんなことまったく知らなかったし、そんなこと感じたこともなかった。そりゃそうだろう。普段使っている安売りの醤油にそんなチカラはない。
八木澤商店の「生揚げ醤油」は、作るのに丸2年かける。薄暗い蔵の中に昔から棲みついている菌が、じっくり時間をかけていろんな香りを作り上げていくんだろう。
八木澤商店の専務が話をしてくれた。安いというだけの理由で輸入に頼ってばかりの日本はやがて食料に困窮する。日本で食料を作り出している人を守らなければならない。だから、外国産ではなく地元の原材料を使うのだ。昨今聞きなれた「地産地消」という言葉の、本当の意味がそこにある。
さらに専務は言う。
醤油を搾り出す過程で小麦大豆のカスが出る。カスといったって、そこにも様々な菌類が含まれている。昔はそれを「金肥」といって肥料として売っていたそうだ。それを今はタダで農家に配り(ほとんどの工場では産業廃棄物として処理されているらしい)、その上、出来上がった米を普通よりも高く買い取っているという。そのぐらいやらないと今の農家はつぶれてしまうのだ。
さらに自分たちで田畑も作っている。金肥をあげた農家からもお礼として大量の野菜が届く。それらを従業員たちの「まかない飯」にあてる。
醤油屋が、ひとつの大きな食料自給のサイクルを作り出しているのだ。
すごいと思った。専務の語る言葉に何度もぐっときた。そんな専務はこの醤油屋の跡継ぎ、我々よりも全然年下の男である。
最後に八木澤商店の「まかない飯」を食わせてもらった。古い大きなテーブルを囲んで、おばちゃんが作るまかない飯。自分のところで作った米と漬物、シャケの切り身に八木澤商店の醤油をかけて食べる。すこぶるうまかった。
このあとも岩手三陸の旅は続きますが、今夜は「三陸のカキ」を食べるので今日はここまで!
また明日だ。
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3本立ての中身は!
一、最初で最後の視聴者参加ツアー企画「東北2泊3泊生き地獄ツアー」(名場面:腹を割って話そう!)
一、引いた絵はがきの撮影ポイントを探してたどり着き、その絵はがきと同じ構図で写真の中に大鈴が納まる「日本全国絵はがきの旅」(名場面:恐怖の四国遍路、他)
一、アラスカのフランベでお馴染みのシェフ大泉がHTBの裏口駐車場にワゴン車を乗り入れて、車内でビストロ大泉を開店。訪れた客の食欲をすべて打ち抜き関係者から激しくバッシングされた1週物の金字塔「シェフ大泉車内でクリスマス・パーティー」!(名場面:プロデューサー炎上、他)
(18:25 藤村)