2011年9月21日(水)

嬉野

2011年9月21日(水)
ババア…、という…、
えぇ言い方といいますものは、
これはよろしくない。
なぜというに、年寄りをないがしろにしている。
その語感には年配者に対する敬意がない。
配慮がない。
とまぁ各方面よりお叱りの言葉が聞こえてきそうな今日この頃。
なるほど、なるほど。ご説ごもっともさまであります。
ですが、このババアという言葉の音から来るところの気持ちの好さを耳にするというものの中には、実に捨てがたい味がありまして。
そのことを本日は、ここで長々語ろうという…。
ことでございますので、根性の無い方はこのあたりでお帰り願ったほうがよろしかろうと、
いうことを、えぇ言っときますよ。私は。
ババア、
と言える対象と申しますものは、
これ、往々にしてファイトある面構えの年寄りであったりすることをイメージいたします。
もしくは、ババア程度の言葉の非礼などは、ものともしない、人生の実力者の風格を感じさせてあまりある年寄りだったりするイメージもございます。
あるいは、なにかといえば憎まれ口が口から洩れる始末に悪い年配者。
そう言ったイメージがある。
私の大層好きな言い方に、
「因業(いんごう)なババア」
という言い方がございますが、
これなどは実に近所にはびこる実力者の風格がございます。
年寄りと舐めてかかれば痛い目に遭う。
口と根性の曲がり具合では右に出る者なき手合いでございます。
こういうのが集団で徒党を組んで善男善女を罵倒したおすという、
そういった手合いでございます。
このように考えてまいりますと、
つまり、強過ぎてとくに気を使う必要を感じないというイメージの中にこそ、
ババアという人種はいます。
ですから、こういう手合いに口でやり込められた者たちが、
「おぼえてろよ!」的な負け惜しみで、
「ババア!」と言いながら泣いて帰るという。
そういう、味わいが「ババア」という呼称の中にはあるのだということを、
私たち日本人は忘れてはならない。
そのように思います。
で、そのババアですが。
北東北の朝市あたりへ参りますと今でもたくさんおりますね。
これがもう実に働き者でね、おまけに世話焼きですね。
おのおの耳が遠くなってきたからなのか、
よく通るでかい声で話してくれるから距離があってもコミュニュケーションが容易です。
そして重い荷物を担いできたからか、商品の前に腰を下ろしてすわりつづけておりますね。
しかも、ひとつの商品の前に二人ずつ並んですわるから監視の目も行き届いている。
ババァ二人が前にした木箱の仲には実の厚いカラスカレイの切り身が皮の焦げめも美味そうに焼かれて並んでおります。
その隣の箱には別の二人組のババアが並んで違う商品を売っている。
とにかく朝市の建物中、ババアには困らないほどババア密度が高いのであります。
ババアは実に好ましい雰囲気を醸してくれます。
たとえば私が「うまそうだなぁ」と思い、その箱の中の切り身をひとつおくれと買いますと、「すぐ向こうに電子レンジがあるからあそこでチンしてやる」といって私を誘導して、2分後に熱々の脂のしたたる焼き魚の切り身を皿に入れて出してくれる。
もう100円出せば白いご飯がよそってもらえて、
もう100円出せば湯気の立つお味噌汁が出てくる。
こうして結局かれいの焼き魚定食が300円ちょっとで食える。
こういうご機嫌なシステムをババアが滞りなく回している。
ババアのみなさんが醸しだしてくれる安心感というものは、無くしてはならない社会の安全装置だと思うのです。
ババアのみなさんが集団でもたらしてくれる、あの安心感は、
彼女たちが年配者だというところから来るものです。
この年になるまで生きてきた。
いろいろあったが生きてきた。
そのことを物言わずババアは風貌で語るのであります。
泣けてきます。
そしてどこか旅人に優しく。
なにくれとなく世話を焼いてくれる。
近所に住んでいたり、同居していたりすれば、
お互い嫌になるほど対立あるいは衝突することもあるだろうけど、
朝市のババアと観光客は行きずりです。
二度と会うことはないかもしれない。
一期一会です。
それにババアにとって観光客は生活の糧でもあるし。
ということで、客商売にババアは最適と、
私は常思うておるのであります。
このババアを、コンビニ、スーパー、書店にて店員として広く採用し、
各店舗の売り場のその床面積に比して「多すぎるだろう!」という規模で大人数配置する。
そうすることで店内にババアの目が行き届く。
これで万引きは根絶できると、私は思うのであります。
だって、ババアが見つめてる目の前で、万引きできる奴はいない。
そこには万引きの醍醐味がない。というか、それはもう万引きではない。
かっぱらいです。
買い物と言うのは妙なものでね、
欲しいものがあれば金を出して買うという道理は誰もが分かっているのです。
それなのに、売り場でふと辺りを見渡したとき、
その辺りに人気がなくて…、
ということがよくある社会になっておりますから、
その時、そこにあった商品をじっと見て、
これ、仮に、今、ひょいとバッグに入れてしまってね、
そのままだまってお店を出てね、
誰にも気づかれなかったら、
それはいったいどういうことかしら…。と、思わせてしまう。
これは、思わなくてもいいことを、思わせてしまう環境を、
効率を求めがちな現代社会が作ってきたところから来る心理だと思うのであります。
つまり。
人間は、私を含め、それほど信用してはいけないということです。
だから、ポスターとかで「万引きは犯罪です」と書くことは、
人間の良心に訴えかけようとしているのだろうけど、
そんなことより、店員の数をむちゃくちゃ増やすことの方が確実です。
そう思います。
だって、私は八戸の朝市で、ババアで溢れるあの光景を目にしてそう感じたのです。
商品の目の前に売り手の目があるところで万引きのことなんか思いも浮かばない。
陽気なババアたちは、そんな剣呑で寂しい心理に客を追い込むことはなかったのです。
そこには売り手のババアが丁寧に調理してきた美味そうな商品が安値で並べてあるばかりです。
ですからね、
私は思うのです。
ババアのみなさんが醸してくれるあの心穏やかな雰囲気を、
ぼくらの町にも欲しいと。
自分の母親以上の年齢の女たちが、商店街のいたるところで物を売ってくれて居る。
スーパーの中も売り子のババアが通路という通路に、売り場という売り場に座っていてくれる。分からないことがあれば教えてくれる。
なんなら人生相談だって乗ってくれる人も中にはいるかもしれない。
何を気にして、何は気にする必要もないということを、
あの人たちは、人生の経験に浅い者にあっけらかんと教えてくれる。
確かに人をいっぱい雇えば、一人一人に行き渡る賃金は激減するでしょうが。
みんなが薄給なら、
誰も彼もが薄給なら、
世間も、薄給でも食べていける値段設定にしないと客が来ないから、
日本中のめし屋は、どこも安い定食を出すでしょう。
そして確かに、その分、儲けは減るでしょう。
それでも客は毎日来るでしょうから、その日その日を生きていける。
昨日も今日も働けば生きていけると思い始めれば、
やがて、儲けは家族が生きていける分出ればいいやと思えてきて、
その分、世間は呑気になるでしょう。
安い労働力が巷に溢れれば、雇用も容易に増えるでしょう。
雇用が巷に溢れれば、仕事をなくしてもすぐ次の仕事にありつける。
だったら、それだけで、とても安心な社会ではないでしょうか。
それが、やりたい仕事ではなくても、
職場の人が優しくて、
いろいろ世話をしてもらえれば、
そのうち、その職場に行くのが楽しみになっていくものです。
そうしてね、仕事は、まぁなんだっていいやと思えてくるはずです。
人間とは、だいたいそういうものです。
自分だけが…、と思えば、嫌になることはいっぱいあるけれど、
世の中みんなそうだぜ、と思えれば、
金持ちの方が肩身が狭いこともあるでしょう。
日本は、これから少子高齢化が進むのでしょうから、
この路線で行けば調度好いのではないでしょうか。
とにかく、
どんなことになろうとも、
やりようというものはあってね、
やりよう次第では、呑気に楽しくやれる。
そういうことではないでしょうか。
それに、そんなに難しいことは、分からなくても好いのではないでしょうか。
高度情報化社会というものがどのようなものか分かりませんが、
そんな話をしてくれている相手が、好い奴かそうでも無い奴かは会えば分かる。
それが分かれば充分だと私は思うのです。
ババア。
朝市に行って、面と向かってそんな失礼な言葉は吐きません。
あたりまえです。
毒蝮三太夫師匠じゃないですからね。
「ババア」という呼称は素人が面と向かって使える言葉ではない。
でも、だからと言って、好きな言葉を無くすのは表現の幅が狭まって困るので。
ババアという日本語はずっとずっと残していてもらいたい。
そんなことを思うのであります。
日本映画の巨匠に小津安二郎さんという方がおられました。
この方のことを書かれた名著があります。
「絢爛たる影絵」という本であります。
文庫にもなってますから、お求めになるのもよろしかろうと思います。
その中に「高野行」と題された小津さんの詩が出てまいります。
小津さんは生涯独身で、おかあさんと二人で借家住まいだったそうです。
このおかあさんが大層な傑物だったそうで、
小津さんは、生涯、このおかあさんを愛しておられたのでしょうね。
そのおかあさんが八十六歳で亡くなられると、小津さんも翌年の六十歳で亡くなります。
亡くなる前の年、小津さんは、おかあさんの遺骨を高野山に分骨に行かれます。
そのときの小津さんの思いを綴った詩が「高野行」です。
以下にその詩の一部を引用し、本日のテーマ、「ババア」という日本語の持つ味わい深さをしゃぶっていただきたいと、私はね、おもいますよ。
「高野行」
ばばあの骨を捨てばやと
高野の山へ来てみれば 折からちらちら風花が
杉の並木のてっぺんの 青い空から降ってくる
あはれはかない世のつねの
うたかたに似た人の身を うはのうつつに感じつつ
今夜の宿の京四条
顔見世月の鯛かぶら 早く食いたや呑みたやと
長居は無用そそくさと 高野の山を下りけり
ちらほら灯る僧院の
夕闇せまる須弥壇に 置いてけぼりの小さい壺
ばばあの骨も寒かろう
以上!
それでは本日も各自の持ち場で奮闘願います。
解散。
【風呂敷宣伝のメモリアル】
嬉野です。
えぇ、本日、どうでしょう風呂敷の詳細が
ユメミル工房の方で発表になりましたので、
これからわたくし、
風呂敷のことについて書こうかと思います。
あれはつい一年ほどまえでしょうか。
あるかばん屋が作った財布を
銀座辺りのガード下にある直営店で求めまして。
革の財布でしてね。
青い色のきれいな財布です。
お値段もね、私にしては高かった。
でも、それなのに買おうと思った切っ掛けはね、
そこのショップの売り子のあんちゃんが持ってたこと、
それでした。
その売り子のあんちゃんが、
「ぼくも使ってるんです」って出したその財布を見ちゃったのが決め手でした。
小さい財布でね。
真四角なスクエアーサイズ。
つまり、手のひらに入っちゃう正方形サイズなんです。
だから、お札は半分に折りたたんで入れるのです。
そうしないと入らない。
そんなサイズの財布です。
でも、そういう、
それほどお金の無い人でも
比較的ぱんぱんになりやすいというあたりも
少し私の気に入って背中を押したと思います。
そのあんちゃんのはね…、
え?なんですか?
「風呂敷の話はどうしました?」って聞いてます?
えぇですからね、してるんですね、今ね。
これ一見、財布の話をしているようでしょう?
いや、してるんですけどね、
でもこれ実は、風呂敷のお話をしているに等しいという、
きわめて高度な語り口で今これ進めてますのでね。
御心配の向きもあろうかと思われますが、
杞憂でございます。
ねぇ。
安心第一。実用本位。
ご家族みんなで水曜どうでしょうでございますよ。
さぁ、ということでね、
そのあんちゃんの財布ですが。
そのあんちゃん、
小銭入れのとこにもいっぱい硬貨をぶち込んでててね、
だもんだからもう、
財布の革を通してその下にある硬貨の丸い形が分かるくらい
ぼこぼこと革が硬貨の形になって盛り上がっててね、
折りたたんで入れてる札は財布から若干はみ出てるわ、
そのお札の間からはレシートやらなにやら紙の束がね、
これももうはみ出しちゃって、膨らんじゃって、
かなり、やんちゃな財布になってましたんですが、
でも、そういう乱暴な扱いにも充分に耐える材質であり、
しっかりとした縫製であることが分かるわけです。
そしてなおかつ、その痛んだ財布から奇妙な風合いが
どうにも好ましいものとして感じ取れるのです。
その感じが奇妙でした。
あんちゃんが、ジーパンの尻ポケットにねじ込み、
出したり入れたりするうちに
革の表面がこすれる。
傷がつく。
色が落ち、変色をし、していくわけです。
痛んでいくのに、その使い込んだ感じが、
なんかすごく好く見えてしまう。
そうするうちに、
「あぁ、なんかこれ好いなぁ」と思ってしまったのです。
それで買っちゃった。
あれ、棚に、きれいな新品の状態で置かれている新品の財布だけを眺めていたら、きっと買わなかったろうなぁと今でも思う。
そして、あれから1年。
私は、あの時買い求めた青い革の財布を、
愛着を持って使っているのです。
万札があれば万札を、
五千円札があれば五千円札を
あるいは千円札を、
机の上できちんと半分に折りたたんで、
その上で財布に入れる。
カード入れの切り込みは三つしかないから、
二枚ずつ入れても6枚しか入らない。
もっとカードがあれば、お札と一緒に立てて入れる。
そうするうちに財布はぱんぱんに膨らんで、
シーパンのお尻のポケットに入れられる。
そうして支払いのたびにその財布を私は出して札を抜く。
その繰り返しは毎日何度も訪れる。
そのたびに財布に愛着が湧く。
そしてふと、こういう物を作る人を尊敬したりする。
そして、そんな物にめぐり合えたことに幸せを感じる。
日々の繰り返しの中で、
ぼくらは己の人生に一喜一憂しながら日を過ごしているのですが。
物は、そういう人生の悲哀と憂鬱とは、
違う次元に身を置きながら、
ぼくらに寄り添ってくれるものだと、
なにやら思うことがあるのです。
「物にこだわる」という言い方は、どこか偉そうで好きになれないのですが、
それは、人それぞれの言いように過ぎないわけで、
普段使いに身につける物たちを、
それぞれの出番の際に、
見つめる、
触れる、この私の目や手の皮膚を通して、
押し寄せてくる喜びは事実としてあるのです。
そのことを体験することができる能力を、
人間誰もが持っていて、その小さくてささやかな喜びが、
時に人生を生き易くしてくれることがある。
きっとある。
なんか、そんなふうに思うのです。
ハードに使い込まれるほど、
物自体から何かが醸されてくる。
そういう幸福物質を醸すもの、
醸せないものが、道具にはあるのだろうと思います。
感じたということは、つまり体験であり。
それは自分でも説明のつかない体験だと思うのですが。
それだからこそ、ここにこうして書いてしまう。
うちの風呂敷もね、
そういうものであって欲しいという思いで、
作られたものです。
風呂敷なんて、
そんなに使う場面も思いつけないのが
現代の日常かもしれませんが、
それでも、使えば使うほど好ましい風合いになる綿生地を使って作っております。
「ユメミル工房」のページでは、
記事も写真も小さすぎてよく分からないかもしれませんから、
そのうち、特集ページを組んで、藤やんと一緒にみなさんにお知らせしたいと思います。
それでは、本日も、ご同輩たちよ。
各自の持ち場でなにとぞ御奮闘くださいますよう。
以上であります。
解散。
【藤村先生メモリアルのコーナー】
9月9日金曜日。藤村でございます。
このところ嬉野先生や店長と、関西方面に出かけることが多くなりました。
実は今、あるモノを京都で作っているのでございます。
それは、「風呂敷」。
図柄はなんと、「ジャングル」をモチーフにしたオリジナルで、真ん中にブンブン・ブラウが建ち、その周囲をうっそうとした熱帯雨林が取り囲み、その間からシカやヒョウ、ゾウなどの動物たちが顔をのぞかせるという賑やかなもので、さらに「出せ!大泉くん出せって!」などのセリフまで入っておりまして、「オイオイ、こんなものが風呂敷になんの?」「やり過ぎじゃなぁい?」という突拍子もないデザイン。
ところがコレ、かなり洒落たデザインに仕上がりまして、我々大いに驚嘆したのであります。
描いたのは、京都の老舗「岡重」さんの絵師(どうでしょう好き)。実に細かい線で図案が構成されており、ド派手な印象ですが、店長の提案で染め色を2色に押さえることで、実にジョーヒンな仕上がりとなったのであります。
紺色(ミッドナイトブルー)の地に、黄緑の線。(夜バージョン)
黄色っぽい地に、深い緑の線。(昼バージョン)
の、2種がありまして、両方ともに動物の目が「銀ラメ入りで光っている」という懲りようであります。
布地は、やわらかくてシワ加工のある「シャンタン」という素材か、木綿本来のカタさがある素朴な「細布」か、どちらにしようかさんざん迷いましたが、「細布」にいたしました。
「シャンタン」の方が見た目に高級感があるし、やわらかくてすぐに使いやすいんですが、「細布」には、使い込むほどに生地のやわらかさが出てくる味があります。普段使いにぜひ、酷使してやっていただきたいと思っております。
未曾有の災害に円高と、世界中から「日本はどうにも弱っている」と思われておるようですが、なにをおっしゃいますか、日本のモノ作りは今日も変わらず丹念に続けられておりますよ。
先日、嬉野先生と英国へ行ってまいりましたが、わたくし、いつのころからかお土産をほとんど買わなくなりました。なぜって、何を見ても日本のモノの方がいいと思えるから、あえて海外でモノを買う必要を感じないんです。
それよりも、日本国内でいろんなモノと出合う方が心動かされることが多い。今回の風呂敷もそうです。実際に我がどうでしょう風呂敷を作っている京都の染め物工場に何度か行って、その作業行程をつぶさに見てまいりましたが、その手間たるや相当なもの。
日本の職人さんが作るモノを、日本人が使う。その良さを自分たちがちゃんと認識する。それは決して、広い世界に背を向けた内向きなことではなく、自国のモノに自信と誇りを持つことこそが、胸を張って世界を歩く第一歩だと思うんです。
メイド・イン・ジャパン。
それは、とてもカッコいいと、あらためて思う今日このごろです。
ジャングル風呂敷は、今月29日発売。吉祥寺東急百貨店で同日から開催される物産展会場でも、もちろん販売されます。買う買わないは別にしても、まずは手に取って見て下さいな!
詳細は来週15日に発表となっております。
では、このところ腹いっぱいだの眠いだのと、そのようなつぶやきでお茶をにごす嬉野先生の本日の日記をどうぞ。
2011年9月9日(金)
嬉野です。
昨日は、なんか、眠れなくて、
ぜんぜん寝ていないので眠いです。
最後の時差ぼけかな?
さぁ、そんな私のことは放って置いて、
本日も、みなさん、各自の持ち場で、なにぶん奮闘願います!
解散。
【エジンバラ出張日記】は、
ウラ話!押せ!のページに、移動→保管しています。
(15:17 嬉野)