2011年5月23日(月)
2011年5月23日(月)
どうも奥さん嬉野です。
日本にはね奥さん。
江戸時代というね、
極めて保守的な社会がさぁ、
300年近くの時間、
この日本国に横たわっていたわけでしょ?
じゃぁ江戸時代という社会はね、
いったいどんなものだったかというとさぁ、
あれですよ、
関が原の戦(1600年)というね、
日本という国を二分する戦いでね、
先祖がどれだけの武勲を立ててくれたかという、
そこで身分が決まってね、
あとは、そのまま、その家の子孫は、
先祖が貰った身分をありがたく受け継ぐだけという社会だったわけでしょ。
だからその時、
高い身分を貰った家の子孫は、
300年も身分が高いままでね、
逆に、悲しいくらい低い身分を貰った家の子孫はさぁ、
300年も身分がないまま、
虐げられたまま、という社会だったわけでしょ。
つまり、頑張っても時代の途中で身分的な巻き返しは出来ない。
虐げられた者は虐げられたまま。
むしろ、身分の低い虐げられた者は、
どっちかというと、現状維持のために頑張らないといけないという切実な現実があったという、
それが江戸時代よねぇ奥さん。
これだとね、
低い身分の家の人たちの精神は代々抑圧されいくよね。
だからね、
おそらくこの精神の抑圧がね、
文化芸術的な方面にうまいこと効くとね、
才能が研ぎ澄まされるから、
身分とは違う文化芸術の分野では、
世界的な文化人も江戸時代には輩出したかもしれないね。
だけどよ奥さん、
政治や、商売や、戦争には、合理性は欠くべからざるものだから、
とにかく幕末の世界情勢の中に追い込まれてやっていくには、
不毛なばかりの社会になっていたのだと、私は思うのよ。
幕末の日本はね。
江戸時代の300年とう時間の中でね。
頭脳明晰な頭でさぁ、
合理的な構想を思いついたところでね、
上からは、それを改革ではく、
「革命」と見なされる社会であればね、
「こいつ危険思想の持ち主だ、放って置くと謀反でも起こすのではないか」と、
因縁つけられるわけでしょ。
「おかしい、あまりにも不合理で無駄が多いぞこの組織は」と思っても、
上層部は過去の慣例だけをいつまでも引き合いに出し、
どれだけ合理的な変更であっても、
「そのようなことは過去に例がない」ということになれば、
「不届きだ」ということで却下されて、
間が悪ければ「こいつ危険な奴」と難癖つけられて罰せられたかもしれない。
だから江戸時代というのはさぁ、
乱暴に言えばよ、
明けても暮れても昨日のままが続いていくばかりの時代だったということになるのだろうね奥さん。
でもね、なんでそこまで昨日を続けていくのか?
それはもう間違いなく上位の身分になってた人たちが、
高い身分にしがみつく事に腐心していた社会だったから、
ということだよね。
いうなればそれは、既得権というやつですか?
上位の人は、
部下が何か気の利いたことをしない方が安泰だという自分本意な考えで。
そうなると、上に立つ人は、国のことを思うより、
まず自分の立場を守ろうとするだろうかね。
こうして上司より有能だと部下は疎まれることになる。
とにかくそうしてね、
みんなの身分的立場が変化しない鬱陶しいくらい保守的な環境が300年続いてね、
その間に、誰か合理的なことを発言する者がいると、
上位の身分の者が、
「既得権を奪われる」と警戒してか、
その人に面倒な災いが降らせるから、
そのうち、ほとんどの人が懲りちゃって、
「なんにもしないほうがいいわ」
「自分で考えたりはしないほうが好いわ」という「お湯」にね、
300年間、浸かりっぱなしになっていった社会だったのだろうと私は思うのよね。
ただ湯に浸かっているという行為は飽き飽きだ!
と苛立ってもね、
「オレは出る!」と言って湯から出たとたん危険視されるなら、
苛立ちながらも浸かっているしかないわけじゃやない?
だったら仕舞いには、
何も考えず浸かってるってことにも馴れるのだと思うよのよ。
「あぁもうもうあれだよね、何も考えなきゃいいんだわ」というぐあいにね、
投げやりの果てに腹をくくってね、
なにも考えなくなって湯に浸かるのを決め込むね。
そうでもしないとさぁ、
うっかり自分の頭でものを考えでもしようもんならね、
ついつい気の利いたことが浮かんできちゃたら大変だもんね。
うっかり、気の利いたこと発言すると上に危険視されるから、
そうするうちに、自分の頭で考えることは禁止してしまうようになる。
なんだか江戸時代とは、
そういう流れの中で、
300年かけて、
「自分の頭では考えない」というお湯に、
全員で浸かりきっていた時代だったのではないだろうかなぁと思うのですよ奥さん。
人は、繰り返すうちに沁みついちゃうんだろうね。
この300年間の習慣が、
平成の今を生きる、ぼくらの中にも染みついたままなのではないかしらと、私は思うの。
もちろん、「おまえの先祖は関が原で何をした」という価値観は、
さすがに今はもうないのよ、
ないけどね。
過去の慣例が重視され、
合理的な改革を思いついても、
そうすることが、今、上位を占めている人たちの存在を危うくすることに繋がれば、
間違いなく却下されるだろうし、
有能なのに、
いや、有能だからこそ左遷されたりするということが繰り返されればさぁ、
江戸時代と同じように、
国を憂えたり、大局に立って組織の改革を望むよりは、
上役への根回しの方が大事に思えてくるよねぇ。
日本人のほとんどを、そういう頭にしちゃうには、
江戸の300年という時間は、充分すぎるくらいだったのではないだろうかねぇと思う。
日本人の本質は、
今もきっと、江戸という時代に縛られてるよ。
好くも悪くも。
今はもう関が原の軍功による身分社会ではないけれど、
学力試験的な優秀さで出世することのある身分社会ではあるよね。
そして、学力試験的な優秀さでは、
職能的な優秀さも同時に持ち合わせているかまでは、
判断することができないんだよね奥さん。
サラリーマンやお役人は、
職能的に優秀であることが理由で出世しているのだろうか?
私は根拠もなく怪しむところがあるよ。
繰り返すけどね奥さん。
江戸時代をね、
関が原の戦いの時の功績で決められた身分上下のままで、
300年やってきた社会という風に考えればね、
この平成の今も、関が原の時の手柄ではないにしろ、
どっかのタイミングで決まった手柄で固められた身分社会はあるのだと思うよ。
そしてこうも予感するの。
世界中のどんな国にも、
等しく、同じ割合で、
職能的に猛烈に優秀な人がいるのだと思うの。
もし、日本が奇妙な身分社会ではなく、
適材適所の原則が正直に実行される社会なら、
この日本の社会に「人災」と呼ばれる災害は、
極端にその数を減らすはずだと思うの。
この国に昔から横たわっている一番の問題はね、
職能のある人の価値を正直に認め、
その人を、適した職場に配置することが、
どういう理由でかどうしても出来ないところにあると、
私は思うの。
そして、どうしても、その問題を許してしまうのは、
江戸時代の300年間「自分の頭で考えない」ということを、
日本人が、し続けてきたその結果からではないかと、
この頃思うのでありますよ。
だから日本にはね、
これからも「人災」が付きまとうはずだから、
生物として失敗が許されないような事業に手を出してはいけない
という結論が出ると思うのよ。
さぁ、ということでね奥さん、
今日も長かったかな。
じゃ、今週も各自の持ち場で奮闘願いますね。
解散。
また明日。
(17:25 嬉野)