2009年3月25日(水)

嬉野

2009年3月25日(水)

奥さん、嬉野です。

天気予報がこの頃はよく当たる。
だがまぁ当たって嬉しいのは自分に都合のよい予報の時だけで。
当たって欲しくない予報の時に当たってもらっても、うれしくはない。
実に勝手な話で申しわけないが、これも人情である。

だがもし仮に、
天気予報なんてそんなけちくさいこと言わないで、
もっと積極的に科学が進歩して、
天気が人の思い通りになるようなことにでもなれば。

つまり気象庁が革新的な科学力を導入して、
明日のお天気をいかようにも出来るようになれば。
向こう一年の天気を意のままに操作出来る力を持ってしまったとしたならば。

そんなことになったら。
反対にやっかいになるだろうね。

発表された向こう一週間の天気をテレビで見た人たちが、
あっちこっちからクレームの電話を気象庁に入ると思うね。

「うちの子供の運動会の日が雨っておかしいでしょ!」
「せっかく一年も前から計画してた家族旅行の日に雨ってひどくないですか!」
「すみません。引越しの日なので晴れにしてください」

人間の力で天気の操作が可能になるって分かった瞬間から、
もう誰もその現実を受け入れようとはしてはくれないのではなかろうか。

人間にはどうすることも出来ない自然の力があるのだと思えば、
悔し泣きしながらでも、いきどおりながらでも現実を呑むしかない。
でも、その決定に人の力が色濃く影響するのなら、もう誰もおとなしく現実を受け入れなくなるのではないだろうか。

死なない薬が出来て。
誰もがそれを飲んで死なない身体になったとして。
やっぱりそれでは人口が増えすぎて食糧危機があっさり訪れて。
それでも人は増える一方で。
そんな中で、地球全体のことを考えて、
無作為抽選で、
当たってしまった人に死んでもらわなければならなくなったとしたら。
それはかえって酷薄で残酷な社会のような気がする。

誰もが死にたくはないだろうけれど。
それでもぼくらはいつかは死ななければならない。
それがぼくらの身体に仕込まれた運命だからだ。

人にはどうすることも出来ないことがこの世に存在するということは。
ぼくらにとって、けして悪いこととは言えないのではないか。
ぼくらには、そんなに大それた事を決めてしまえる力は無いし。
その決定を人に納得させられるほど偉大な力もまた無いのだ。

それでも、もうずいぶん自然をねじふせて、
人の思いのままになってしまったことがあるだろう。

それらはもう、なかったことには出来ない。

なんつーことで、また明日。

時代は今の人は、本日までお休みです。

皆の衆、解散じゃ。
また明日。

(17:11
嬉野