2008年11月24日(月)

嬉野

2008年11月24日(月)

嬉野です。

寒いです。
でもまぁ冬ですから。

「そういえばと」と、
昨日思ったのです。

そういえば、昔は犬といえば番犬だったな、と。
不意に思い出したのです。
嬉野さんは年配者だから、思い出せるわけです。
かつての時代のことを。

「奥さんゴムひも買ってくんねぇか、おらぁ昨日ムショからでてきたんだけどさぁ」みたいな押し売りが来ると気味が悪いから、
「ねぇ、うちも犬を飼いましょうよ、この頃変な人来るのよ」
と、そういう動機で犬を飼ったわけです。

つまり番犬として犬を飼うというわけです。

だから番犬は見慣れない来訪者を不審者とみなし、吠える。
噛み付きそうな顔をして、うなる、牙を剥く。
そうすると押し売りは撃退されて奥さんは心強い。
だから犬は玄関先で飼われていた。

そういえば猫はネズミを捕ることを期待して飼われていたなと。

両者はそういう役目を期待されて飼われていた。
まぁその犬猫全部がね、実際のところ家人の期待に添えたかどうか、そこにはまぁね、個体差があったでしょうがね、
それでもね、
いっこうに番犬の役に立たない情けない犬であったとしても、
犬を飼うという動機には「番犬として」という、ハッキリとした名目があった。

猫だって、ネズミなんか捕りゃしなかったとしてもさ、
ネズミをとることが猫を飼う動機だった時代があった。
今から見ると不衛生な家に住んでいたんだろうね。

でも、犬猫それぞれには、家庭内で飼育される役目があった。
だから犬猫と家人は同居していた。

そういうお互いの立場で付き合ううちに、犬猫も人も、温かい血の通う生き物どうしだから、自然とコミュニュケーションをはじめたんだろね。

ネズミがいなかったりさぁ、押し売りが来ない日はね、
犬も猫もとりあえず仕事がないからね。
そういう時、家人も犬猫とスキンシップをしたかもしれない。

飯を食わせ。
しっぽをパタパタ振って喜ぶ犬を見下ろしながら、どこか飼い主は満足し、
「よし!」という掛け声とともに飯し皿に顔を埋めてガッついて美味そうに食う犬を見て飼い主は心が慰められることがあった。

子供はお父さんにひどく叱られて、犬小屋で犬に寄り添って慰めてもらう事だってあったかもしれない。

昨日ね、近くのホームセンターで働く犬たちのデモンストレーションがあってね、それを夫婦で見に行って、警察犬やら救助犬、介助犬の働く姿を見ながら思いだした。

そういえば、昔は、犬猫にだって役割があった、と。

でも、そんな役割を犬猫にぼくらは期待しなくなって久しい。
それでもペットショップに行くと、たくさんの犬猫がいる。
それを見ながら、犬猫全員が新しい飼い主に引き取られていくのだろうかと不安になることがある。

店舗には商品があふれ。
食品であろうと、電化製品であろうと、
自分が欲しいものが何なのか分からなくなるほど、店には商品があふれてね。

楽しいような不安なような…。

テレビをつけると、朝から夜までいろんな物が売られていて、
見ているうちに自分が買わなければいけないものはどれだろうと思い始め、何ひとつ欲しくならず、でも次々と商品が紹介され、だんだん意味も無く不安になることがある。

自分には、必要なものがどれくらいあるのだろう。
自分は、ほとんど欲しくないのに、なのにこんなにいっぱい引き取り手を求められているものがある。

そう考えて、そのうち、ぼんやりと思い始めることがある。

ぼくらは、必要とされているのだろうかって。

それは瞬間的なぼくだけの妄想だけど、引き取り先のない犬猫や欲しくならない新製品が世の中にあふれてしまってるような気に勝手になってしまうと、不意に、人も、なんの役割ももらえず、この世にあふれているような気がしてくる。

そうして、妙にいやーな気になってくる。

昔、飼い犬や飼い猫には役割があったように、
自分に役割があると思えるといういことは、
素朴に他人や社会に求められている存在ということになる。

それを実感して初めてぼくは安心できる。

それも、自分にだって出来る簡単な役割で求められるのが好い。
そんな単純な能力で日々を渡っていける世の中が、
どうも私には向いている。

それが、私の望む、明るい未来。
まぁ、私個人の取るに足らない与太話だけどね。
じゃなきゃ、年寄りのたわごと。
まぁそんなとこです。
どーぞ、お聞き流しを。

じゃ、奥さんまた明日。
今晩も美味しいご飯をつくってね!

解散!

【DVD第11弾発売決定!】
「桜前線捕獲大作戦」「十勝二十番勝負」「サイコロ5」の3本立て!豪華2枚組!
12月15日予約開始!
4月15日発売&受け渡し!

(15:58 嬉野)