嬉野

3月26日木曜日。

えー時代は今、不完全燃焼の藤村でございます。

先週土曜日、NHKさんに行ってまいりました。

「日本の、これから」のスペシャル版「テレビの、これから」。

スタジオに勢ぞろいした視聴者代表の方々、糸井さん、民放連会長、NHK副会長はじめ有識者の方々、そして各局のテレビ制作者が3時間に渡って「テレビのこれから」を語る。

とはいえ、まぁあんだけの人数がいれば、なかなかじっくり話ができないのはコレしょうがない。

番組後半にはもう、「藤やん、ずいぶん怖い顔してるじゃねぇか」と思っている方も多数いらっしゃったことでしょう。

えーそりゃぁ多少怒ってましたよ。

しかし今、民放各局の作り手が集まる機会を、NHKが作ったという事実は、「よくやってくれた!NHKさん」と、拍手を送りたいのであります。

なんだかもうね、各局の制作者に強い結束力が生まれましたよ。

勢い込んで上がったヒナ壇芸人が、さんまさんや紳助さんを前に何もおもしろいことを言えなかった、みたいなね。「あーゆう話じゃねぇよなぁー」「あれはフリが悪い」みたいな感じですよ。

「やーなんか芸人さんの気持ちがわかった」とか言ってましたからね。

まぁ番組では不完全燃焼でしたが、三宅、武内両アナウンサーをはじめ、NHKの番組スタッフの方々とわたしゃ朝4時までびっしりと飲み、大いに語りましたので、とりあえずは燃焼して帰ってきました。

そうそう、朝4時にね、シメの言葉を三宅アナウンサーが言おうとしたんですよ。でもみんなまだワイワイと騒いでおりましてね。

そしたらあの温和な三宅アナが、「おれにもしゃべらせてくれよッ!」って言いましてね、「あー三宅さんもたまってたんだなぁ」と、笑いしましたよ。

NHKの人たちは実におもしろい人たちでした。

あと、うれしいことがふたつ。

ひとつは、糸井重里さんとお会いできたこと。まぁ、たまたま便所で隣り合わせただけですけど。

このサイトは、嬉野先生が糸井さんの「ほぼ日」を参考に作り上げたものですからね。その糸井さんに、おしっこしながら「えーあのー・・・パクらせてもらいました!」と、ようやく言えましたから。

糸井さんも「ほぼ日の読者とどうでしょうの視聴者は、なんだか重なっているんですよねぇ」とおっしゃっておりまして、なんだかうれしかったですねぇ。

次は是非、便所ではないところで、じっくりお会いしたいと思いました。

もうひとつは、ようやく20数年ぶりに高校の先輩に会えたこと。

「相
棒」の松本プロデューサーは、実は名古屋の高校のラグビー部の先輩でして。私は知ってたんですが、松本さんは「水曜どうでしょうの藤村D」が、まさか「ラ
グビー部の後輩の藤村」だったとは夢にも思ってなかったらしく、「えっ!あの藤村だったのー!」と、たいそう驚いておりました。

「相棒」と「水曜どうでしょう」、不思議なところでつながっているんです。

まぁ、テレビに対して語りたいことは山ほどありますが、それはまたおいおい。

とりあえず今夜は解散!

(18:36 藤村)

嬉野

2009年3月25日(水)

奥さん、嬉野です。

天気予報がこの頃はよく当たる。
だがまぁ当たって嬉しいのは自分に都合のよい予報の時だけで。
当たって欲しくない予報の時に当たってもらっても、うれしくはない。
実に勝手な話で申しわけないが、これも人情である。

だがもし仮に、
天気予報なんてそんなけちくさいこと言わないで、
もっと積極的に科学が進歩して、
天気が人の思い通りになるようなことにでもなれば。

つまり気象庁が革新的な科学力を導入して、
明日のお天気をいかようにも出来るようになれば。
向こう一年の天気を意のままに操作出来る力を持ってしまったとしたならば。

そんなことになったら。
反対にやっかいになるだろうね。

発表された向こう一週間の天気をテレビで見た人たちが、
あっちこっちからクレームの電話を気象庁に入ると思うね。

「うちの子供の運動会の日が雨っておかしいでしょ!」
「せっかく一年も前から計画してた家族旅行の日に雨ってひどくないですか!」
「すみません。引越しの日なので晴れにしてください」

人間の力で天気の操作が可能になるって分かった瞬間から、
もう誰もその現実を受け入れようとはしてはくれないのではなかろうか。

人間にはどうすることも出来ない自然の力があるのだと思えば、
悔し泣きしながらでも、いきどおりながらでも現実を呑むしかない。
でも、その決定に人の力が色濃く影響するのなら、もう誰もおとなしく現実を受け入れなくなるのではないだろうか。

死なない薬が出来て。
誰もがそれを飲んで死なない身体になったとして。
やっぱりそれでは人口が増えすぎて食糧危機があっさり訪れて。
それでも人は増える一方で。
そんな中で、地球全体のことを考えて、
無作為抽選で、
当たってしまった人に死んでもらわなければならなくなったとしたら。
それはかえって酷薄で残酷な社会のような気がする。

誰もが死にたくはないだろうけれど。
それでもぼくらはいつかは死ななければならない。
それがぼくらの身体に仕込まれた運命だからだ。

人にはどうすることも出来ないことがこの世に存在するということは。
ぼくらにとって、けして悪いこととは言えないのではないか。
ぼくらには、そんなに大それた事を決めてしまえる力は無いし。
その決定を人に納得させられるほど偉大な力もまた無いのだ。

それでも、もうずいぶん自然をねじふせて、
人の思いのままになってしまったことがあるだろう。

それらはもう、なかったことには出来ない。

なんつーことで、また明日。

時代は今の人は、本日までお休みです。

皆の衆、解散じゃ。
また明日。

(17:11
嬉野

藤村

3月19日木曜日。時代は今でございます。

1年以上前になりますが、携帯を変えましてね。

どうせならワンセグを見れるやつがいいとか、とにかく機能がいっぱい付いたやつにしたわけですよ。

それまで携帯なんか興味なかったのに。

でまぁ、待ち受け画面だのなんだの、今さらながらにゴチャゴチャいじり始めたんです。

そしたら「着せ替え」なんていう、待ち受けからメニュー画面から、一気に変えられる機能があることを知り、

「おーこりゃすごい」と。

で、あちこちで探してみたんだけど、あんまり自分好みのものがない。

「なんだよ、つまらんなぁ」と、

思ってたちょうどそのころ。

ある人物から久しぶりに、「来週札幌に行くので飲みませんか」みたいなメールが来て、その人物というのが、ゲーム屋なんだけど携帯のコンテンツに関わる部署にいたので、「おー飲もう飲もう」と、「ついては、ちょっと話がある」と、言って一緒に飲んだわけです。

「最近、携帯新しくしてね」

「ほぉーいいですね」

「でも、待ち受けとかさ、着せ替え?とかさ、いろいろカスタマイズ?みたいなことしようと思っても、なかなか自分好みのものがないんだよね」

「なるほど」

「これ、もうちょっとおもしろいもの出来ないもんかねぇ」

「そうですねぇ」

「例えばさ・・・」

と、話が盛り上がり、

「じゃぁ・・・作ってみますか!」

となり、

「お、作れるのぉー?」

「できますよ。ちょっと時間下さい」

「いやー話が早いなぁー!」

となって、やがて、

「出来ました!かなり力入ってます。見て下さい」

と、完全オリジナルの「着せ替え」を作ってくれたわけです。

「おー!待ち受けが動くじゃないの!あら!携帯開けるたびに出てくるものが違うよ!凝ってるねぇー!メニュー画面も!着信も全部オリジナルだぁ!いいねぇこれ!」

とてもおもしろいものを作ってくれたわけです。

オリジナルの着せ替えですよ。この世でひとつ。

「どうだぁーいいだろー」と、

みなさんに自慢するためにこんな話書いてるわけじゃありませんよ(嬉野先生にはもうずいぶん自慢しましたけど)。

これをだ、完全なカタチで世に出すためには、いろいろと手続きなど時間が必要だったわけです。

で、ようやく出来ました!

携帯版「水曜どうでしょう」オリジナル・・・・詳細は近々発表!

これは楽しみにしていただきたい。

DVD第11弾「桜前線/十勝二十番勝負/サイコロ5」の発売&引渡しも、いつのまにやら1ヶ月を切りました。

4月15日は久々のお祭りになりますなぁ。

さて、

明日からまた留守にします。

土曜日夜7時からのNHK「日本の、これから」でお会いいたしましょう(思いっきり他局の宣伝しちゃってるけど)。

「藤村まであと2日!」

嬉野先生もいないので、カウントダウンはここまで!

ほれ解散!

(18:53 藤村)

藤村

3月18日水曜日。

お久しぶりでございます。時代は今、藤村でございます。

先月25日以来の日記登板ということで、およそ20日ぶり。

この間、劇団「ヨーロッパ企画」が主催する「ショートショートムービーフェスティバル」に参戦してまいりました。

今年で5回目を迎えるこの映像フェス。

「ゴ」というタイトルで、5分以内のムービーを作る。

条件はこれだけ。実写だろうがアニメだろうが何でもよい。

最終的に審査員長の映画監督・本広克行さん(←どうでしょうファンだった)といとうせいこうさん、そして会場に来た観客のみなさんの投票によって順位を決める。

参加者は本格的な映画監督から俳優、お笑い芸人、一般参加のみなさんと幅広い。まさに映像の異種格闘技戦。

まぁそうは言っても、華のない劇団「ヨーロッパ企画」の主催ですから、基本しょぼいコンテストではあります。

そんな中、テレビ局からの参加は私だけ。そこで、みんなは使えないが、私はタダで使える「テレビ局の設備」を存分に使った作品を制作。

舞台は報道スタジオ。5分間の夜のローカルニュース。

「よろしくお願いしまーす」

アナウンサーが席につく。

「本番10秒前!」

フロアディレクターのカウントダウンが始まる。

「8、7、6、5・・・・」

なぜかカウントダウンの声が「5」で止まる。

フロアディレクターは5本の指を大きく開いたまま固まっている。

(ん?どうした)

周りのスタッフも事情を飲み込めないまま、本番に突入。

「♪HTB〜」という明るい歌声のオープニングVTRのあと、画面は報道スタジオ、アナウンサーのワンショットに切り替わる。

「こんばんは。夜のHTBニュースです」

ところが画面には、大きく開かれたフロアディレクターの5本指。アナウンサーはその指の間から冷静にニュースを読み始める。

「今日からさっぽろ雪まつりが始まりました・・・」

5本指が画面に大映しになったままニュースの本番がスタート。

慌てだす周りのスタッフ。

「どうした!」

「おい田村!手をどけろ、なにやってんだ」

「田村、動きません」

固まったまま全く動かないフロアディレクター田村。

「田村・・・死んでます!」

「なにッー!」

本番中に絶命してしまったフロアディレクター。慌てるスタッフ。

「おいっ!タムラーッ!しっかりしろー!」

「こんなとこで死ぬなーッ!」

スタッフの悲痛な絶叫が響き渡る。

しかし、その声が全部放送に入っていて・・・それでも熱くなって絶叫し続けるスタッフと、指の間から冷静にニュースを読み続けるアナウンサー、その息詰まる5分間のお話・・・。

という、まぁミニコントのような映像を我が社の谷口アナと制作部員の出演で撮りまして、ショートムービーフェスティバルに出品したのであります。

フェスティバルは、東京と大阪でそれぞれ開催。

結果は18作品中、東京大会が2位。大阪大会は3位でありました。

1位は両大会とも一般参加の、札幌で映像を作っていたポップル・ピープ・プロダクションのアニメ?作品。北海道では数年前に深夜にテレビ放映もされていた映像で、これは抜群におもしろかった。

東京大会で3位、大阪大会で2位だったのが、ドラマ「歓喜の歌」にも出てくれたヨーロッパ企画・永野君の作品。

まぁ優勝ではなかったけれど、イチから台本を書き、タレントではなく制作部員を出演者に、文化祭のようなノリで映像を作ったのが、なんか、懐かしいような、でもすべての自分の基本のような、そんな感じがしてとても良かったですなぁ。

いや、ちょっと、身が引き締まりました。

まぁそんなことをやりつつ、短い休暇も取りつつ、この20日間をやっておりました。

さて、嬉野先生もこのところ出張が多くなっております。

昨年に引き続き、今年も「HTBスペシャルドラマ」のプロデューサーとして活動中なのであります。


年は立川志の輔さんの落語を原作としましたが、今年は嬉野先生の原案を元に、ある脚本家の方に執筆を依頼。この方の書く芝居というのが、いやぁー本当に素
晴らしいのであります(下新井なんとかを書いた人じゃありませんよ。念のため)。さらに今年は、「ハナタレ」プロデューサー福屋氏(通称キャップ)もドラ
マのプロデューサー陣に加え、最強の布陣で暑苦しくドラマの準備を始めております。

一方、時代は今、藤村の活動はまだ未定ではあります。

が、とりあえず今週土曜日はNHKさんに参戦。

「テレビの、これから」という夜7時半から3時間半に及ぶ生放送で、NHK副会長、民放連会長をはじめ10数名の民放各局のテレビマンに混じって激論を展開予定。

さぁ藤村が生でテレビを熱く語るのか、それともガチガチになって上滑るのか。

どっか他人事のように楽しみであります。

「藤村まであと3日!」

ホイ解散!

(17:24 藤村)

嬉野

2009年3月17日(火)

嬉野です。

さて。来る3月21日土曜日。
うちの藤村がNHKの番組に出演をいたします。
生放送でございます。
11名のテレビ業界の名士のみなさん、25人の視聴者代表と席を同じゅうして、
藤村がテレビを語る。

奥さん。
時代は今、「藤村」でございます。

この日記上で厳かにカウントダウンをしてまいりたいと思います。
それでは奥さん御唱和ください。

「藤村まであと4日!」

では解散!

(12:00 嬉野)

嬉野

2009年3月16日(月)

嬉野です。

さて。来る3月21日土曜日。
うちの藤村がNHKの番組に出演をいたします。
生放送でございます。
11名のテレビ業界の名士のみなさん、25人の視聴者代表と席を同じゅうして、
藤村がテレビを語る。

奥さん。
時代は今、「藤村」でございます。

本日よりこの日記上で厳かにカウントダウンをしてまいりたいと思います。
それでは奥さん御唱和ください。

「藤村まであと5日!」

本日わたくしは、キャップ福屋と出張で不在の身でございますが、
広報On越あきが中継してくれましての登板でございます。

では解散!

(14:44 嬉野)

嬉野

2009年3月13日(金)

嬉野です。

小学生の頃でした。
親父から聞かされた話があります。
それは日本がアメリカと戦争していたころの話です。

日本軍はアメリカ軍の猛攻にあって壊滅的な打撃を受け。
もう組織的に戦うことが出来なくなって。

それでも。
日本軍は戦闘行為を止めてはならず。
兵隊たちは、散り散りになってジャングルを逃げ続けていた。

そんな日本の兵士の話です。
場所はフィリピンとかビルマとかニューギニアとかだったと思います。

その兵士の戦友は敵の砲撃で死亡して。
兵士は戦友の遺品を日本に持ち帰りたいと思って。
遺族に戦友の遺品を渡してあげなければと考えて。
遺品をどれにしようか迷っていました。

兵士は疲れていました。
とてもとても疲れていたのです。

いえ。
その兵士だけではなく。
日本軍の兵士は皆疲れていて。
そして皆、どうしようもなく腹を空かせていたのだそうです。

兵士は考え抜いた末に、戦友の名刺を一枚抜き取り。
この名刺を遺品として日本に持ち帰ろうとポケットに仕舞いました。
一番軽かったのです。

こうして兵士は逃げました。
もう身体も気持ちも、ぼろぼろで。
でも、死にたくは無かったので歩き続けました。
右足を出し左足を出し。前に進むのでした。

兵士なのに。
もう武器も持っておらず。
重いものはみんな途中で捨ててしまいました。
服もぼろぼろで。
ただ幽霊のような足取りになりながら。逃げました。

どれくらい経ったころでしょう。
逃げながら。
兵士は自分の左肩がモーレツに重いことに気づきました。
でも荷物はもう何も持ってはいないのです。
それなのに左肩がモーレツに重い。

兵士はよろめきながら左の胸のあたりを触ってみました。
すると、左の胸のポケットに一枚の名刺が入っていました。
戦友の名刺です。
兵士は名刺がこれほど重いのだということにその時はじめて気づきました。
でも、捨てるわけにはいきません。
これは戦友の遺品なのです。
日本で彼を待つ彼の遺族に。
彼の父に。彼の母に。手渡さなければと兵士は強く想いました。
でも。どうしようもなくその名刺は重かったのです。

兵士は、朦朧とする意識の中で必死に考えました。
そうして名刺の端を少しだけ。すこしだけ。指でちぎりました。
そうしてまた。歩きだしました。

それでも。
少し行くと、また左肩が無性に重くなるのです。
兵士は立ち止まり。またポケットから名刺を取り出しました。
そうして、また丁寧に名刺の端を少しだけ。ほんの少しだけ指でちぎりました。
そうしてまた歩き出すのです。

でも。
それでもどうしても左肩が重くなる。
兵士は立ち止まって。
また名刺の端を少しだけちぎる。

それから幾日歩いたでしょう。
運好く兵士は日本へ帰る引き上げ船に乗ることが出来。
そうして無事に日本へ帰りつくことが出来ました。

こうして兵士は、戦友の遺品を遺族に渡すという責任を果たすことができたそうです。
でも、遺族の手に渡された時。
その戦友の名刺は。
ほとんどの部分がちぎられて、
ぎりぎり戦友の名前が刷られているところばかりが小さく小さく残った、奇妙な奇妙なものになっていたのだそうです。

その話を親父は子供だったぼくにして。
そうして親子して。
うすっぺらい名刺一枚が耐えられないほど重くなるのだと言う。
極限状態に追い込まれた人の身の上に、遠く思いを馳せるのでした。

その親子の感慨から30年以上経ち。
話してくれたぼくの親父も病気で死んでしまい。
すっかり分子になってしまった二年後。

ぼくはロケでマレーシアのジャングルを歩きました。

ブンブン・クンバンという動物観察小屋を目がけて。
植物の繁茂する登山のような険しい山坂の道を11キロ。
熱帯の太陽に照らされて7時間歩き続けました。

栄養の行き渡った身体でも、
45歳の身体は最後にはへとへとになり。

本当に最後の辺りでは歩くのがやっとで。
背負ってた荷物は大泉くんに背負ってもらいながら。
1キロ以上あるビデオカメラは、もう重くて胸の前で構えることも出来ず。
ただ左手に下げてしまい。
それでも途中で何かあるといけないと思い。
ビデオカメラのスイッチだけは切らず。
テープを回しながら左手に下げたままで歩いていました。

画面は多少ぶれても、音声が入れば使えるからと、
ずっと回した状態にして、ただただ左手にぶら下げて歩いていました。

でも。
そのことがある時点から気になって気になってしょうがなくなったのです。
カメラが回っていることがです。
撮影していると言うことがです。

ブレブレの画になっているはずです。
もう画作りには微塵も気を使ってはいないのです。
でも撮影しているという。
その一事が気になって気になってしょうがなくなった。
そしてカメラのスイッチを切りたくて切りたくてしょうがなくなった。

自分でも不思議でした。
なぜならビデオカメラのスイッチを消したところで、
カメラの重量は減りはしない。
変わらず重いのです。

だからそう思って。
そう自分に言い聞かせて歩くのです。
ですが。
それでも撮影を続けているのだという状態に、
やっぱりぼくは我慢が出来ないのです。

モーレツに歩くのが辛くなるのです。

そうしてぼくはとうとうビデオカメラのスイッチを切りました。

その時、うそのような開放感を味わいました。
身が軽くなったのです。

ぼくは、いま分かります。
あの兵士は名刺一枚が重かったのではなかったのです。
遺品としてどうしても持ち帰らねばならないという、
その責任が重かったのです。

テープが回っている以上。
撮影している以上。ぼくには責任がある。
ぼくは勝手にそう思い込んでいたのでしょう。
その責任をぼくに課していたのは、ぼく自身だったのです。
そんなこと日ごろは意識したことも無かったのです。

でも、ぎりぎり追い込まれた時。
ぼくは身をもって感じたのです。
責任には実際、重量があるということを。

その責任は自分が自分に課したもので。
そしてその責任の重量は人間を押しつぶせるほどだということを。

責任は間違いなく人を押しつぶすだけの重量があります。
責任感の強い人はなおさらです。

日ごろは気づかないだけです。
気づかないままにぐりぐり押されているのです。
そういうことがあるのです。

無責任になれと言っているのではないことは。
お分かりいただけていると信じます。
そんなバカなことを言っているのではない。

ただ気をつけろ。と。
申し上げているだけです。

責任にはとてつもない重量があるのだということを。

まともな人ほど、責任感があるのだということを。
そして、まともな人が多いほど、社会は豊かになるのだということを。
ぼくらは、誰もが、まともでいたいと思っているのです。
そうして責任を果たしたいと願っているのです。

でも、自分の身の丈を越えた責任も持ってはいけないのです。
それでも知らぬうちに持っている。

だから身の丈を越えたと少しでも感じたら。

その分だけ、
ちぎって捨てていくほうが好いのです。
その方が好いのです。

そうすれば、あの兵士のように、
かろうじて自分を無事に保ったまま。
自分に持てる重量の責任にして、
果たすことができるのです。

そんな話です。

ただまぁ、長々書きましたが、
あてずっぽうですから、残念!大間違い!
と言うことは当然あります。ねぇ奥さん。

しかしまぁ。
わたしゃそう思うと言うことです。

さて、
藤やんは今日お休みで。
来週の月曜日もお休みです。

ということでね。
今週はこれで解散です。

それでは奥さん。
また来週!

(18:22
嬉野

嬉野

2009年3月9日(月)

嬉野です。

春はどこまで来ておるのやら。

奥さん、春はさぁ。
晴れた日がいいね。

田舎道。
埃っぽい道がのびていて。
遠くには山が青く。
道の脇には菜の花がいっぱい咲いてて。
かたわらに立つ桜の木は満開で。
そこへ春の風が吹くたびに。
はらはらとピンクの花びらが舞い落ちて。

呑気な春。

そうね。
おらぁ奥さん、呑気が好いよ。
そしてさ。
やらねば!
という時になったら、きちんと緊張する。

人間ね、
そういつもいつも
緊張してばかりはいられないんだよ。
そらぁ油断してると怒られるよ。
当たり前だ。
そら怒られる。
怒ってくれてありがとうだよ。

でもね、油断するなと怒られたにしてもさ。

どっちかというとね
日常的に油断してるから
健やかに生きていけるところが人にはある。

常に緊張をしているハツカネズミは、
だから心労でショック死してしまう。

昔ね。
番組で飼ってたハツカネズミの引き取り手を、
「鈴井の巣」班が探し求めていたから、
手を上げて、家で引き取った。

死んだハムスターが昔入ってたケージに入れて飼ってた。

ある晩、家の女房が可愛いからってケージに手を入れた。
でもハツカネズミは警戒して寄って来なかった。
「おいでよ」って、家の女房は無理やりハツカネズミをつかんじゃった。
そしたら、きっとモーレツに緊張したんだろうね。
そのまま死んじゃった。

生き物好きの女房の落胆振りは、
そらぁ、はたで見るのもかわいそうなくらい
気の毒なものだった。

でも、それがハツカネズミという種の生き方なのだろう。
常に緊張して怯えることで外的から身を守るのだろうよ。
気の毒だけど、
それもひとつの種の生き方だろう。

でも人間の生き方ではない。

なんかそんなことですよ奥さん。
分かったような分からん話だな。
詰めが甘かった。
いいじゃないですか奥さん。
春なんだから。

ちゅうことでね。
本日はこれにて解散!

明日からまた出張でガス。
お留守番を頼みますよ。

(13:00 嬉野)

嬉野

2009年3月6日(火)

嬉野です。

今日の札幌は嵐です。
でも春が近い嵐です。

さて、思いつきの話をひとつ。

世間には、妻子のある男性ばかりに、
想いを寄せてしまう女性がいて。
でも、いつも仕舞いには上手くいかなくなって別れてしまう。

そんな別れを繰り返すその女性を脇で見続けるうちに、
「そんな人とばっかり付き合っていてはダメよ」と友人は助言してしまう。
すると決まって「あんたなんかに私の気持ちは分かんないわよ」と怒られて、
でも、怒った彼女は、悲しげな顔をして、
それきり黙ってしまう。

でもその女性はやっぱり今回も付き合っている男性と上手くいかなくなって別れてしまう。

「ね。あなたの前では家庭に不満がありそうなことを言っても、やっぱりあの男性には、あなたより家庭の方が大事だったのよ」。そう言うとその女性はもう何も言わない。

その女性が、いつまでも生産性の無い恋の道を突き進んでいるのは、もう誰の目にも明らかなことで。

「だから好い加減にそんな家庭持ちの男性ばかりに気持ちを向けるのはやめて普通の恋をしなさいね」と、諭すように友人はまた助言する。

でも、その女性が、
まだ小さかった頃、両親が離婚して、
早くから父親に甘えられずに人生を送って来た人だとしたならば。
そして、
そのせいで。
その女性が、家庭的な雰囲気を持つ男性にしか恋心を抱けないのだとしたならば。

それでもまだ、その女性に助言することができる人がいるだろうか。

人を好きになることに割り切れる合理性も説明のつく理屈もありはしない。
あるのは、ただその人をどうしても好きになってしまう自分と、
そう想ってしまうその人なりの理由だけだろう。

ならば求めても求めても得られない人を求めてしまう理由に縛られてしまったとしたならば。
その人の恋はただただ悲しい恋にしかならず。
どこまで行っても人生のハッピーエンドにはたどり着けない運命になる。

そう考えれば、
「あんたなんかに私の気持ちは分からない」と言われてしまうのは、
悲しいほど当たり前のことなのではないだろうか。

異性しか好きになれない人に「同性を好きになりなさい」と言ったところで、
いったい誰が「はい分かりました」と言えるだろう。
同性しか好きになれない人に「異性を好きになりなさい」と言ったところで、
いったい誰が「はいわかりました」と言えるだろう。
それと同じことではないだろうかとぼくは不意に思って、
人というのは始末に負えないほど複雑な生き物だと思った。

ぼくらは複雑なのだ。
割り切れないものを抱えながら、苦しみながら、それでも生きていける。
そのことをぼくらは忘れてはならないのだ。

非合理でも、矛盾していても、理不尽でも、
苦しくても、絶望しても、
抑圧されていく自分の感情をコントロールしながら前を向いて生きていく能力が、ぼくらにはあるのだ。

それは、あらかじめぼくらの人体にプログラムされている能力だと、
今、ぼくは思うのです。

いったい何万年、何十万年前に出来上がったのか知らないけれど、
ぼくらのこの人体が完成した時、
荒々しかった当時の地球上で、ぼくらが生きていけるように、
ぼくらの人体に組み込まれた能力のような気がするのです。

だからぼくらは、その能力を、
そして、その能力を与えられたぼくらのこの人体を、信じるべきなのかもしれない。
信じて、前に向かって進むべきなのかもしれないのです。

なんかそんな気がするのです。

ぼくの頭の中にはもっと込み入っていろいろあるのですが、
整理してここに書くのが困難で、きょうはこの辺りで終わりです。

でも、ぼくは、この先どんな時代になろうと、
ぼくらの人体が持つ敏感な感度とバランス感覚とは、
常に正しく機能していくのだと、信じていくつもりです。

書いてること分からないですねきっと。
すんません。
私の考えてることなんか、気にする必要はありませんよ奥さん。
頭の悪いおやじのたわごとですから。

では、また来週!
本日はこれにて解散。

(18:06
嬉野

嬉野

2009年3月4日(水)

嬉野です。

昨日。
樋口了一さんが「誰も知らない泣ける歌」に出ていましたね。

樋口さんがスタジオライブで歌ったのは「手紙」 ?親愛なる子供たちへ? 。

女房はその時、初めて「手紙」という歌を聴いたのですが、
歌の途中に、「好い歌だね」って涙声でつぶやいていました。

「泣ける歌です」よっていうプレッシャーな紹介のされ方をしても、それでもね。聴いているうちに、やっぱりこの身に沁みてくるものがある。

ぼくの親父はもう死んでしまったけれど。
母親も八十歳という高齢になってしまったけれど。
その両親と一緒にくらしたのはせいぜい人生の18年くらいで。

でも。
大事な子供時代をその二人に守ってもらって、
それでも、親子仲が好かったり、悪かったり、
そんなでこぼこは、人それぞれにあるだろうけど。

でも、この歌を聴きながら、
ぼくが、いつも素朴にハッとするのは。
ひとりではなんにも出来なかった頃の自分が、
二人の親に大切に育てられた時間があったんだという事実。
その事実を今更のように思い起こしてしまう瞬間。

小さすぎたから。
その頃の記憶が、ぼくらの中にぽっかりとない。
だから、そんな当たり前のことを、
ぼくらは改めて意識することもないまま、この年になるまで生きてしまった。

でもさぁ、なんにも出来ない時期があったんだよねぇ。
誰にもね。
火がついたように泣いて訴えたり。
屈託無く笑って可愛いと思ってもらったりして。
そんなことしか出来ない時期があったんだよねぇ。

そんな時、大切に育ててくれる愛情がなければ、
ぼくらは生きては来れなかった。

それは、あたりまえのことなのにね。
全部、忘れてるんだよね。

若者だった父親のことも。
娘時代の面影を残していた母親のことも。
若い両親が、生命力の持つ明るさに溢れていた時間の中で暮らしていたことも。
そんな時間の中で何から何まで世話してもらっていたことも。
そしてそれが、なにより幸せな時間だったということも。

だから「あっ」って思い出してしまった瞬間に、
ぼくらは「そうだった」って思い知る。

樋口さんの「手紙」という歌は、
そんな大事なことに気づかせてくれる歌。

ということでね。
もうすぐ春です。

(16:31 嬉野)