2011年10月7日(金)
2011年10月7日(金)
嬉野です。
先日「たけしの世界丸見えテレビ~」に、
仙台のパフォーマンスチーム白Aが出ていました。
エジンバラでは見せなかった仕掛けをやってました。
やっぱり面白かった。
でもね。
あらためて考えると自分でも思うのです。
いったい自分は白Aのパフォーマンスを
どうして面白いと思ってしまうのか、と。
3人のパフォーマーの前に
それぞれ白いキューブが三段積みで積まれていました。
縦に3個積まれた白いキューブを横に三つ並べつと、
9個のマス目に分かれた白いスクリーンになります。
そこへ単純な動きを見せるアニメーションが映し出される。
動きに合わせてテンポの良い音楽がリズムを刻みます。
左端の一番上のマス目にあった文字が勢い良く右端に移動する。
その文字がまた右端から左端へ移動する。
たとえばそんな動きを連続して行うアニメーションが、あらかじめ作られていて。それがステージ上に積まれたマス目のスクリーンに投影される。
そこへ、このアニメの動きにステージ上のパフォーマーが後づけでタイミングを合わせて絡んでくる。
するとパフォーマーがスクリーンの左端を手で叩いたから、
そこにあったアニメの文字が右端へ動いたように見える。
すると次にもう一人のパフォーマーもスクリーンの右端で待ち構えて叩き返す。
その瞬間、アニメの文字は勢いよく、
もといた左端へ返っていく。
見ているものは知っているのだ。
動いている映像は、あらかじめ作られているものだと。
それでも、そこにパフォーマーが介入して、
あらかじめ決められたアニメの動きにタイミングを合わせると、
まるでパフォーマーの力がアニメの映像にリアルに介入しているように見えてくる。
見ている者は知っている。
パフォーマーがほんの少しでもタイミングを間違うと、
全てが台無しになることを。
その緊張感が見るものを惹きつける。
こうして、このあらかじめ作られているアニメの動きは、
徐々にスピードを上げ、縦へ横へ斜めへと複雑化して行く。
それでもパフォーマーのタイミングは見事に合い続けるのだ。
やがてぼくらの脳は、だまされ始める。
もはやステージ上のパフォーマーが不可思議な力をもって、
虚像であるアニメの映像を自在にあやつり、
あやつられた映像が弾かれる度にそこで音楽が奏で始めるのだと。
虚像を自在に動かし、
動かした虚像が弾き弾かれ音楽を奏でていく。
見る者には、いつしかそうとしか見えなくなる。
それでもう、その場は白Aのものとなるのだ。
手品やイリュージョンであれば、
種や仕掛けが客席に分かった段階でしらけたものになる。
ところが白Aの場合、
最初からその仕掛けは分かっている。
そうしておいて見る見るうちに見る者の脳を欺き
だましていく。
ぼくと藤村君は、この8月。
彼らのパフォーマンスをイギリスのエジンバラで見た。
その町には、その時、世界中からパフォーマーや演劇、
コメディー、フラメンコ、ダンスと、数千を数えるパフォーマーが一同に会していた。
その中で、
エレクトリカルな電気ショーを見せるのは白Aだけだった。
あらためて振り返ったぼくはそのことに驚いた。
どの国のパフォーマンスも詰まるところマッチョを自慢しているところがあった。
彼らのマッチョ自慢は筋肉であり、
強靭なバネのような肉体であり、
跳躍であり、
危険と隣り合わせの芸をこなす肉体であり、
軽々とした身のこなしであり、
一糸乱れぬ集団の動きであり、
それらを易々とこなす鍛え上げられた力自慢であった。
それを見て感嘆した客席はその肉体へ賞賛と共感贈った。
その中に居ると、白Aの電気ショーは異質過ぎる。
子供に見えるのだ。
スピード感のある映像とテンポの早い音楽を、
完璧なタイミングで合わせて来る白Aのパフォーマーの肉体は、
マッチョではない。
そこには他を制圧する「力」自慢はない。
あるのは、見る者の脳をだましていく、
からくりに人が介入して行く不思議な世界だ。
電気ショーは、日本の伝統でも無い。
だが、ぼくはエジンバラで藤村君と毎日毎日世界中のパフォーマンスを見続けて行く中で、
マッチョ自慢の世界を尻目に、
子供のような肉体で電気ショーを軽々とやれてしまうのが
日本人の特性なのかもしれないと思い至った。
根拠はない。
それは直感。
隣国と国境を接し続けるのが、
ヨーロッパであり、ユーラシアであり、世界だ。
隣国と衝突して引かなければ、
強いものが勝ち、弱い者は凄惨な目に遭う。
負けぬためには「力」がいる。
そのためのマッチョ自慢だ。
そのための努力だ。
そこには「力」への敬服と畏れにしがらむ世界がある。
それがマッチョ自慢の芸風へと世界をなびかせるのなら、
その世界を尻目に平気で子供のような肉体で電気ショーを繰り広げることができる民族が日本人だと言えるような気がした。
それは、四方を海に囲まれ、
どの国とも国境を接することのない島の国に住む、
日本人という民族が当たり前に普通に持ちえてしまった軽やかさゆえなのだと思った。
だが、その当たり前は、世界から見れば異質であり特殊だ。
そして、いつまでも子供のようであるような日本人に、
マッチョでありつづけねばならないしがらみの世界が、
共感し敬服することなど無いのは当たり前だと、
あらためて思った。
そういうことなのだと。
生き物は環境に強い影響を受け左右される。
そうしていろいろな地勢学的環境に住みながら、
民族は特異性を持つに至るのだ。
だから得てもあれば、不得手もあることになだろう。
日本人の住む地勢学的環境は世界の中で際立っている。
同じ経験が出来ない以上、世界に共感がないのは仕方が無い。
しかし我々は、世界が、とらわれ続けているマッチョというしがらみから自由なのだ。
その事実は強く自覚したほうが良いのではないか。
それを思う。
そして、そこを思う時。
世界が必ず超えなければならないハードルを、
地政学的に超える必要のない場所に住む日本人は、
サボって好い気なものに見えるだろう。
だったら日本人は、これから先も世界に敬服も共感もしてもらえないに違いない。
けれど。
マッチョのしがらみに絡め取られた彼らの眼にも、
自由に軽々と子供のままの無邪気さで飛び跳ねることのできる日本人の特殊性は、心のどこかで「力」にうんざりした世界に生きる生き物の心をどこかで慰めているはずだ。
そういうことを思った。
もし、それであるのなら、
我々日本人は、
表立って、
世界から共感も敬意も表されることは、
これからも無いだろうが、
世界が世界であるために、
がんじがらめになっていることから、
こんなに自由な国があるのだとう言う、
その一点に置いて、
ぼくら日本人は、
世界の人の心のためになっているのだと、
そう言い切っても良いのだと、思ったのだ。
得手と不得手は民族にもある。
ならば得てを伸ばすべきだとぼくは思う。
得ては伸びるのだ。
そして得手をどれだけ頑張って伸ばしても、
表立って世界は日本に敬意は表したりはしないだろう、
だけど、きっと世界を慰めることはできる。
日本人は、世界の覇者にはなれはしないが、
日本人は、世界を慰めることが出来る。
それは一番素晴らしいことではないだろうか。
これから日本は、世界の心を慰めていくのだと思う。
そうすることが日本という国の生きる道なのだ。
そんなことを、この夏、
エジンバラで藤村君と白Aを見ながら、
ぼくが感じたことでした。
さて、その白Aが11月に北海道に来るのです。
滝川市と札幌市で公演します。
是非見て欲しい。
11月24日滝川公演。
11月25日・26日札幌公演。
札幌公演の会場は、キューブガーデンです。
料金は2000円
ローソンチケットで、お買い求めになれます。
(ローソン店頭のロッピより)
ということで、本日はずいぶん長くなりましたが、
これにて終了。
本日も各自の持ち場で奮闘願います!
解散!
(16:31 嬉野)