2012年2月2日(木)

嬉野

2012年2月2日(木)
嬉野です。
昨年末のことでありましたが、
京都に根拠地を置きまして
活動いたしておりますところの劇団
「ヨーロッパ企画」さんのみなさんを、
これまた札幌に根拠地を置きまして
世間のみなさんから
「意外と小さかったんですね…」
的な感想を正直に漏らされるがごとき社屋にて
今日も甘んじて仕事をしておりますHTBが、
彼の劇団員を冬の札幌へ一挙に招きまして、
ぶっ続けで1週間ほどスタジオに籠もりながら
朝から晩まで撮影をいたしました彼らのショートコント、
いや、コントというのはどうだろう、
コントというよりは、やはり演劇、
いや、うーん分からん、
まぁ何にせよ笑っちゃう芝居ですが、
この彼らのおかしげな演劇の
おかしげな味を
映像に写し取るという試みに、
うちの藤村さんが前々から意欲を燃やしておりまして、
それが不意に実現する日の目を見たのが
昨年末のことだったわけで、
そして無事に撮り終えました今、
その最終の編集を
ただ今うちの藤村さんはやっているというのが今週の近況でございます。
で、おとついのことですが、
ワタクシ、藤村さんの編集室へ参りまして、
つながったところを見せてもらいました。
するとこれが、おもしろくつなげられている。
なるほど、
ヨーロッパ企画のおかしげな芝居の
おかしげな味わいを映像に写し取るという試みは
おそらく成功しておると感じ入りました。
うちの藤村さん、あっぱれですね。
今更ながらに、
あの方の笑いセンサーが検知する
針の触れの貪欲さと言いますか
地底深く流れるおかしみ鉱脈の匂いを機敏に感じ取る
ダウジング的編集の感とでも申しましょうか、
おかしみが何故その場でおかしみとして匂い立つのか、
その都度、噴出してまいりますおかしみガスの
その成分がいかなるものかを
おのれの鼻で嗅ぎつけて、
化学式に再構築して一般化するようなことを(言ってることが意味不明ですが)
あの方は果敢にやっておられるようで、
このようなことが出来る生物は、
地球上に、なかなかいないぞと、
ワタクシ素直に感心をいたしました次第でね、奥さん。
と言いますのもね、奥さん。
編集というものは実にやっかいなものなのですよ。
ぼんやりと考えていただきたいのですが、
舞台といいますものは、
客席から眺めるものでございます。
当然のことながら初めからおしまいまで全体が丸見えです。
ですから、客席におります者は
舞台上のあらゆるものに目がいきます。
お客の目は何処を見ようと始終フリーです。
つまり客の視線は野放し状態なのです。
まぁ、そういうものとしてね、
演劇は作られ完成しておるわけでございます。
ところが映像と言いますものは、
カメラで状況を写し取るものでございます関係上、
全部を、
全体を、
広く写し取るという事も勿論できますが、
特定の人物や
その時々の表情、
あるいは、そこいらに転がる物体にも
焦点をあてて大写しにして
他のいっさいのものを見せないということも、
これ、選択的には出来てしまうのでありますよ。
いわゆるアップという効果であります。
アップと言いますものは、お気づきでしょうが、
知らず知らずのいうちに
見る者に緊張を強いてくるものでございますよ。
何故ならば、
「ここだけを見ろ」
と、見る者にそこだけを見させる強制力を持っておるからでございますよ。
たとえば、いきなり、人間の「目玉」が大写しにされて、
目玉を画面いっぱいにして見せられたら、
客は、目玉の他に見るものがないわけで、
ということは、
アップは、客に視線の逃げ場を用意しない映像ということになり、
いってみれば、視覚的にがんじがらめにされたような状態ですから、
誰だって怖ろしくなるのでございます。(まぁちょと極端な、たとえでしたがね)
このような理由で、
「なぜその部分だけを見るように強制されるのだろう」
という疑問が画面を見るうちに湧いたら、
その答えが画面から返ってくるまで、
アップには緊張感がまとわりつくことになる。
かくのごときアップの映像を
ごく短く、かつ多彩に入れ替わる早いカット変わりでつないで参りますと、
今度は、そこに驚くべきテンポが出てしまいます。
つまり、これだけの材料だけで話をさせていただきましても、
編集というものによって、
舞台上になかったはずの緊張感と流麗なテンポが
画面上には創出されてしまうのだという事実がお分かりになるはずでございます。
(撮影の場合、同時に何台ものカメラを、さまざまな位置に配置して撮影するわけですからねぇ奥さん、視点は目まぐるしく華麗に変化させることができるのです)
つまり、
このような映像の特性といいますか、
編集という技巧が生み出してしまう映像の跳躍力の奔放さとでも申しますか、
奔馬のごときエネルギーを制御しないと、
「ヨーロッパ企画」という劇団の作者でありますところの上田誠くんが書き上げた
どうにも笑っちゃうような状況設定と
呑気さかげんを醸しだしちゃうそのセリフを、
自らの身体から発するセリフの言いっぷりと、
その持てる肉体から立ち上らせる呑気ガスで具現化していくという「ヨーロッパ企画」の役者たちの
余人をもって変えることの出来ない身体能力を持ちまして
舞台上に醸して参りますところのおかしみは、
編集することによって画面上で跳躍を始めてしまう、
映像の暴れ馬が、
家庭菜園を蹴飛ばしてしまうような要領で、
あっさりかき消してしまう恐れがあるのでございます。
それほどに、
巧みな編集が生み出す映像の運動能力は強く、
それくらい、
おかしみというガスは、
儚げなものなのだと思います。
ですから、ここを見誤ってはならない…。
実に、ここが思案のしどころなのでございます。
いまさらですが舞台で演じられますものは、
舞台上で完成、完結してしまっているものなのでございます。
それを映像に写し取るという試みは、
ある意味、蛇足的な営みであろうと思います。
それはうちの藤村さんも充分承知しておるところ、
しかしながら、現代日本社会に置きまして、
演劇を観に劇場へ足を運んでまで見るという行為は、
日本人一般の、習慣にまでは、なってはおりません。
演劇を見るという行為は、
一部の文化的興味の強い都会の人たちによってのみ
細々と行われている観賞行為と思います。
そのことを鑑みました時、
うちの藤村さんも、ご多聞に漏れませず、
演劇を見にわざわざ劇場に足を運ぶ方ではなかったため、
職業柄、ちょくちょく演劇を見に行く機会が増えるにつれ、
そのたびに感動、感心、感銘しする自分に驚き、
芝居という、
かほど、おもしろきものを、
一部の人たちだけで味わって終わらせるという状況は
あまりにも、もったいないことであると、
素朴に感じ入り、
なんとか、これらおもしろさを映像に写し取ることに成功し、
編集で画面上にこのおかしみを再構築できさえすれば、
テレビなど、映像を送出する媒体を使って、
広く多くの人に
演劇の驚異的なおもしろみを伝えることが出来るではないかという志のもと、
まずは、つきあいの長くなった「ヨーロッパ企画」の芝居から醸されるおかしみを映像に写し取ろうという試みがなされたという流れでございます。
ですから、
うちの藤村さんが、成し遂げようとしますものは、
いわゆるテレビで放送されます「劇場中継」とは似て非なるものであります。
なぜなら、
今回のスタジオ撮影に客席はございませんでした。
スタジオで撮影に従事しましたスタッフも
「ヨーロッパ企画」の芝居に、笑うことを禁じられ、
撮影は静寂のうちに進められたわけでございます。
この状況の中で、
「ヨーロッパ企画」を主催いたします上田誠くんは、
以下のごとき名言を吐きました。
「ぼくらの活動を、アーチストの楽曲演奏にたとえれば、
普段、ぼくらが舞台で演じるのは、ライブ活動で。
今回の映像化は、CDで言うところの『スタジオ版』ですよね」
と。
「でも、スタジオ版収録の場合、スタジオには、観客がいない。
そうなると、役者たちには、客の反応を見ながら、
芝居小屋全体に発生する、
舞台と客席の双方から湧き上がる
波動のうねりを増幅しながら演じて行く道は閉ざされている。
スタジオのスタッフも反応しないから客と思って見てはいけない。」
そこで上田くんが辿り着いた道は、
「ならば、演じる役者たちの間だけで盛り上がらなければならない」
と、いうものでした。
それを聞いてワタクシは、思わず膝を叩く思いでした。
だって、「どうでしょう」の撮影現場ってそうです。
観客もいない。
撮影スタッフも物語に深く加担しているので、スタッフもいないとなる。
そんな「どうでしょう」の撮影現場で、
我々がなにをしているかと言えば、
「自分たちだけで盛り上がる」という道でした。
この極めて「どうでしょう」的な状況は、
図らずも「どうでしょう」に限らず、
あらゆる映像の現場に言えることだったということになる。
上田くんは、短時日の間にそのことを喝破したな、と、ぼくは感じ入りました。
映像で物語を作る場合には、
辺りには誰もいないものとし、
演じ手たちだけで盛り上がれ。
そうしないと、後日、映像を通してそれを見る観客に共感を抱かせることが出来ない。
そうなのかもしれない、と、ワタクシは思ったのであります。
札幌という雪に閉ざされた地方都市で、
京都という深いローカル性の残る、
千年の歴史を誇る王城で暮らす「ヨーロッパ企画」という弱小劇団と、
ローカルテレビ局に、あだ花のように生をなした
「どうでしょう」という弱小番組を作ってきた者とが、
棲家の違いをさらけだしつつも
近づき乗り越えようとしたその数日間の思い出が、
やがて、なんらかの形を得て、
みなさんのお目に触れる、
そんな時が来るのだと思います。
そして、目論見は、
どうやら「果たせた」という予感がいたします。
かくて、うちの藤村さんは、
撮影で近いうちに韓国へ行くとのことでございます。
先日の日記の末尾には「ちょと、がんばってきます」と、書かれてありました。
思えば、あの方の、このような言葉の選択も、
いつにない、
どこか、
並々ならんものがあるようにも汲み取れます。
しかしながら、
あの方がお持ちの
映像職人としての山師的な感、
それとダウジング的な嗅覚で、
その時々に人間どもの間で儚く醸し出されます「おかしげガス」を、
韓国でもその都度、正確に嗅ぎ分け、
随所に立ち現れますところの「おかしげガス」の分子構造を解明しつつ、
おそらくは映像に貼り付けて帰ってくるものと思います。
なんだか、またしても長々しく書き連ねまして得るところもないという、
相変わらずの展開で、お恥ずかしき限りでございますが、
本日は、この辺りで、筆を置かしていただきます。
まぁね奥さん、
筆なんか握ってないのは知ってるのは、お互いだけどね、
好いじゃないのよ。
雰囲気よ、雰囲気。
それでは、諸氏。
例によって、
本日も、各自の持ち場で、なにぶんの奮闘を願います。
そうして誰に省みられることなどなくとも、
奮闘することで、いつまでも正気のままでいようとする諸氏に幸いあれ。
この先も、出来る限り多くの日本人が、正気でいようとすること、
それだけが、これからの日本のためになるのだと、
ワタクシは、信じるものであります。
では、解散。
明日も達者でな。
【藤村さんのメモリアルのコーナー】
1月31日火曜日。藤村でございます。
3月発売のDVD「ヨーロッパ・リベンジ」の編集が終わり、現在は「ヨーロッパ企画」の撮りおろし短編の番組化のための編集しております。
忙しい毎日を過ごしております。
さて、一昨年あたりから、わたくし韓国へよく出かけております。
先週も釜山からソウルまで、酷寒の韓国を、韓国人のスタッフとともに車で12時間かけて走りました。
実はわたくし、韓国で番組を作ることになりました。
日本で放送するものではなく(放送するかもしれませんが)、韓国の人たちに向けて、韓国で放送する番組を作るという。
「ん?なにやってんですか?」
と言われそうですが、なんというか、日本と韓国の間にはもう、国境はないんじゃないかと思いまして。確かに歴史的なことはあるんでしょうけど、実際に韓国の人たちと会って飲めば、互いに肩を叩き合って分かり合えるし、別に国境はないでしょうって普通に思ったんですね。だから、東京に行くのと同じような感覚で、ソウルに出かけているうちに、番組を作ることになりました。
5月に韓国でデビューする6人組の男性アイドルグループの番組です。
内容はまぁ、みなさんには「あーなるほどね」と思われるであろう内容の、バラエティー番組であります。
2月半ばにロケをして、今のところ4月から韓国で放送の予定。
どうなるかまったくわかりませんが、まぁ、やってみようかと。
「日本人ってバカだなぁ」と思われつつ、「韓国人だって似たようなもんじゃん」と笑い合えるようなものになればいいな、と思っております。
ちょっとまぁ、がんばってきます。
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(15:31 嬉野)