2012年9月26日(水)

2012年9月26日(水)

嬉野です。

マンション規約に「人に迷惑をかける動物は飼ってはならない」というのがあります。

私なんかは、「じゃぁ、しつけの行き届いた犬は大丈夫ね」と解釈してしまうのですが、世間的にはそういう意味ではないんですね。

「動物はいるだけで人に迷惑をかけるものである」という認識から入らねばならないのだそうで。

だから、どんなに好い子にしていても、動物というだけで「迷惑」と思う方がいるので、動物である限り「人に迷惑をかける存在」というのはぬぐえないのだ、と、読まねばならないのだそうです。

つまり、努力してみんなに受け入れてもらおうと頑張っても、受け入れてはもらえないということらしいです。

受け入れてもらえない理由は、「動物だから」、です。

聞いて、私は少しポカンとしました。

だって、もしマンション規約に「住人に迷惑をかけるような人間は居住してはならない」と書かれていたら、「そらそうだ、そんな人に住んでもらっちゃ困る」と思うだけです。

だったらオレは大丈夫。
そう思います。

でも、違うと言われるのです。

「お前は人間だろ?だったら、そうってだけで住人に迷惑をかけるんだから、お前は住んじゃだめなんだよ」って、言われる。

そこある理由は、「お前だから」、です。

何かをしたからではないのです。
どれだけ努力してまじめに生きても、
お前は、お前だから受け入れないんだよ、と言われるのです。

そんな悲しい話って…。

昔、日本がアメリカと戦争をしている頃、
「汚いジャップは出て行け!」という言葉があったそうです。

日本人は憎まれていたそうです。
だから「日本人は汚い」と言われた。

正直な人も、まじめな人も、温厚な人も、勤勉な人も、清潔な人も
日本人であると「汚い」と言われた。

「偏見」が生まれたのでしょうね。

「汚いジャップは出ていけ!」

もしこの言葉が、特殊な日本人を指しているのでなく、日本人すべてに向けられていると思えた時。
そこには偏見があるということです。

普通の生活感覚であれば、公正な視点が存在しますから、汚くない者は居ていいという限定的な表現とならねばならないはずの文章です。

ならば「人に迷惑をかける動物は飼ってはならない」という表現も、公正な視点があれば、限定的な意味にとらえられる。

ですが限定的ではなく動物すべてを指していると読めるなら、その人には、偏見があるということです。

昔、犬に噛まれた。
それから犬が怖くなった。
それは気の毒なことです。
死に至ることもあるのですから。

お母さんにそんな経験があったかもしれない。
だからお母さんはとにかく犬が嫌いだったかもしれない。
だから自分も犬が嫌いに思えてきた、ということかもしれない。

「嫌なものは嫌なんです。分かってください」
そんな気持ちもあると思います。

でも、いろんな犬がいる。
人間もいろんな人間がいる。
ひとりひとり違う。
分かって欲しい。
ぼくを気に入ってください。
ぼくを受け入れてください。
そんな風に思って生きている人もいる。
そんな風に思って動物と生きている人もいる。

いつも公正な視点を持つ。
それが普段の社会です。
健全な人々が営む社会です。

学校から、いじめがなくならない。

「いじめてないですよ」
「あいつ、いじめられてるんだって」
「あの子可哀そう、いじめられてるんだよ」

ぼくも、いじめられた上に、そんなことを周りからささやかれたら、多分、生きていけないと思う。

だって、「お前はお前だから受け入れない」
そんな理不尽な拒絶をされながら、「あぁ、自分はいじめられているんだ」と思いながら、でも「いじめられている」と思いたくないから、必死で平気な顔をしていなければならないような気がして、よけい悲しくなって、そして、そんな日々が終わらないと思えば、多分、生きてはいけない。

どうしてぼくを受け入れてくれないのですか。
「だって嫌なんです。嫌なものは嫌なんです」
そんなふうに言う人が一人じゃなくて。
全員に言われるって。
誰も自分に口をきいてくれないなんて。
昨日もひとり、今日もひとり、明日もひとり。
いつもひとり。

みんな「いじめ」と言っているが、これが「いじめ」だろうか。

ぼくは違うと思う。

今、いじめと呼ばれているもの、それは、「迫害」なのだと思う。

「いじめ」呼ばれると、子供じみた風に聞こえる、

「いじめられている」と、親しい人に言いたくないのは、
「いじめられている」という表現の中に、自分が、一人前でない感じがするから、だからなんかものすごく悲しいのに、「いじめられていること」が恥ずかしいことのようにも思えてしまって、自分で自分にがっかりする、とても自分が情けない者に思えてしまう、打ち明けたら、自分を愛してくれている人をガッカリさせてしまうように思えて、親しい人にほど打ち明けたくなくなる。
だって自分を愛してくれている人は、最後の砦に思えるから。

言葉が違うのだ。

もう「いじめ」「いじめられている」ではないのだ。
今のこれは、もう「迫害」なのだ。

校内迫害。

「迫害されているのです」と、打ち明けるべきと思う。

迫害されれば、人は生活ができず、死に至こともある。

「いじめ」でこどもが死ぬのではない。
そんなものでは人は死なない。
あれは「迫害されている」のだ。
迫害されれば、人は死ぬ。

当たり前のことだと思う。

昔に名づけた「言葉」は、そのままだが、
社会で起きている現象は、場所は同じでも時間の推移とともに、
その中身が少しずつ少しずつ形を変えているのだ。
現象の中身が変わったのならば、名づけた名前もその変化にともなって変えていかねばならない、別の災いを招くことになるからだ。

だから「迫害」と変える。
「迫害されている」と変えるべきと思う。

「おかあさん。ぼく学校で迫害されているの」

迫害ならば、情けない気持ちにはならない。
断固戦いあるのみ、と、思える。

まぁ、そんなことを思いましたから書きました。

いいかげんな男が、いいかげんな頭で書いてるだけですから、信ぴょう性はまったくないです。

たんなる、あてずっぽうの思いついたがままの話です。

ということでね奥さん。
本日も各自の持ち場で奮闘ください!

昨日と同じことを今日もやる、そして明日もやりましょう。

目立たないところで奮闘してる目立たないやつがね奥さん、
意外に今の日本を底で支えているんですよ。
この理由の見えない平穏と秩序はね、そういう人がたっくさんいるから支えられている、ぼくは本当にそう思うんです。

ではまた来週!
解散!



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(17:54 嬉野)

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